2014年3月19日水曜日

葉書の効能


ポストカードというよりも、葉書という名前は何となく
耳に馴染むというか、しっくり来る。

元々は他愛のない雑談の産物だった。
仲間の集う尾崎財団で
「何か、来館記念になるようなものがあるといいよね」
そんな一言から、ならば作ってみようという事になった。
その一方で「作ってくれる人」はおらず、また企画制作を外注する
予算があるわけでもないので、満場一致で私がつくる事になった
こういう時の私は、いつもか弱い少数派だ。



製作自体の過程については前回のエントリのとおりなのだけれども
本舞台の葉書をこしらえてから、ここ2年ほど無精になっていた
直筆の便りをしたためたいと思うようになった。
意外な効能に作った私自身が驚いている。


さて今回の葉書、片面には尾崎行雄の揮毫を全面に置いている。
レイアウトの関係で宛名面は上下に分割しているのだけれども、
一筆啓上するには充分なスペースである。

眺めているうちに、葉書、そして言葉、それぞれの意味について改めて考えた。
ソーシャル何とかが隆盛をきわめ、コピペ放題の現代においては
手紙はすっかり珍しくなってしまった。
それでも、こんな時代だからこそ想いを託し、時間をかけて筆を握り、
書き損じてはやり直しのアナログなやりとりは大事にしたいと思う。
私自身、ここしばらく忘れていた感覚だ。


手前味噌かも知れないが、この葉書きは受け取った人にも
何かを感じて頂けるのではないかと期待している。
私がどんな一筆を添えるか、それよりも
どうして尾崎の揮毫をあしらった葉書きを送りたいと思うのか。
そちらの方が大きい。

「人生の本舞台は常に将来に在り」。

尾崎の著書『人生の本舞台』によると、病に伏していていた折に
ふと浮かんだ言葉だそうである。
古今東西同種の言葉を調べてはみたものの、類する文言を
見つける事が出来なかったこともあり、以来尾崎は自らの座右の銘として
用いるようになったらしい。


この一言は確かに「憲政の神」あるいは「議会政治の父」と呼ばれる
尾崎が発掘した言葉ではあるけれども、決して尾崎だけのものではない。
今を生きる人、これまでに蹉跌を抱えた人、
何となく物事がうまくいってないと感じる人。
そんなとき、この一言があれば
ちょっとは気持ちが前を向くきっかけになれるのではないか。
そんな事を願いながらこしらえた。


なにも、尾崎を上げ奉ろうとしている訳ではない。
こんな時代だからこそ、語り継ぐ価値がある言葉がある。
温め直したい価値観がある。
そう思えばこそだ。


今年はちょうど、憲政の神が没してから60年の節目。
アベノミクスではないが、さしづめ「第一の矢」とでもいったところだろうか。
不思議と、矢はいくら放っても尽きる感覚がない。
射るたびに新たな無限の矢が湧いてくる、そんなことを連想している。


これまで尾崎財団の「人生の本舞台~」と言えば
入口正面の石碑であったり、もしくは色紙であった。
いずれも持ち帰ったり携行するには不便だが、葉書ならば
懐に忍ばせる事もできる。
誰かに届けるにも、コピペなんか必要ない。
切手一枚あればいい。

お蔭様で仲間内では好評を頂いているが、
それよりも製作を担った私が一番うれしい。



さて、誰にどんなメッセージを届けよう。
季節の変わり目、考えただけでも胸が躍る。



1 件のコメント:

  1. 素晴らしい葉書を誠にありがとうでしー!!
    1枚はうちの子が名刺がわりに胸ポケットにつけているので、もう1枚はどう使おうか考えております。
    どこかに貼るのも、お手紙にするのも良いでしねー。

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