2014年2月24日月曜日

15期を終えて

永田町の憲政記念館にある、尾崎行雄記念財団。
ここの「咢堂塾」という学び場で、足掛け3期に渡り学ばせて頂いた。


一番最初の回は2010年の事だった。
どんな集まりなのか予備知識もないまま、たまたま募集の案内を知った。
締切まであと一週間しかない、ぎりぎりのタイミングで申し込んだ。
必死で志望動機を書き上げて投函し、何とか受講許可を頂いたのがちょうど4年前になる。

きっかけは確か、初代塾長の相馬雪香先生を偲んで、何かしらのご縁を頂きたいと願ったのが発端だったと思う。
もっとも初めてその名を識った時は、既に泉下の人となっていたのだが。


歴史上の人物ならば諦めはつくものの、数年のタイムラグでお目に掛かれなかったのは本当に残念だった。

なぜ、相馬雪香さんという存在に反応したのか。

人として生まれ、生きるからには「何かを良くして」人生を終えたい。
充実した現在を生きる人からの学びは、もちろん日々のご縁の中で色々と経験させていただいている。
けれども相馬先生に対しての思いは、ちょっと違った。
様々なエピソードを知るにつけ、ご縁の無かった己を悔やんだ。



一番最初となる12期目は、自分でも何が学べたのかが整理できない、あっという間の10か月だった。
咢堂塾では大学の講義も顔負け、休憩なしの120分1本勝負。
各分野の専門家を講師に迎え、講義の終盤は質疑応答に入る。
自分なりの問題意識と、質問をぶつけられるだけの理解がないとぶつかる事ができない。
たしか最初の年は1回質問が出来たかどうか、その程度だったと思う。

後半は、講師のレクチャーをベースにディスカッションをするのだが、生来の内気と持論をぶつだけの土台が無かった事もあり、どちらかというと「お客さん」で終わったような10か月だった。


そんなでも、何とか卒塾という栄誉を頂くことは出来た。
嬉しい半面、釈然としない。
消化不良のような想いを抱えていた。


そうこうしているうちに、3.11の東日本大震災を迎えた。
塾での学びは一段落と思い再入塾は躊躇したのだけれども、
通っている間に諸先輩からの口伝がどうしても耳に残っていた。


「学んであなたは、何をするの。」


その答えを、まだ出せていない。
そう思い、1期挟んだ14期に入りなおす事にした。


咢堂塾はいうなれば「尾崎行雄塾」である。
けれどもその本質は、初代塾長の相馬先生の理念と実践であると
改めて認識した。

学び終えて、何をするのかの答え探し。
初回よりは講義にもついていけるようになり、後半のディスカッションにも立ち位置の異なる異論には果敢に向かっていくようになった。


そうこうしているうちに、相馬先生の問いに対する答えがなんとなく見えてきた。
それでも、明確に「これだ!」というには至らない。
あと一歩、もう少しで何かが見えて来そうな気がする。


ならばと思い、もう一度。
3度目の受講を決意して15期の末席に置かせて頂いたのがちょうど1年前だった。


これまでの2回とは違い、今回のテーマは「尾崎行雄」だった。
咢堂塾のルーツは相馬雪香先生であるのだけれども、その土台はあくまでも咢堂こと尾崎行雄だ。

なので、これまでの講義ではそもそも触れられる事のなかった尾崎に対する理解をどれだけ深められるか。
その1点に拘った。


学び始めて足掛け4年。
今回は様々な初体験を迎えた。

学びの舞台である「憲政記念館」の本館、そして「尾崎メモリアルホール」。
いずれも足を運んだのは今回が初めてである。

本館には帝国議会始まって以来の各種資料やら、変わったところでは安重根が伊藤博文たちに放った弾丸などが有った。

また「人生の本舞台は常に将来に在り」揮毫の原本が尾崎メモリアルホールに掲げられているのもこの半年前に初めて識った。

学んでいるようで、実は尾崎の事を何も知らなかったんだなと改めて「愕然とした」。
愕然という言葉は尾崎の雅号「咢堂」のルーツでもある。


更なる学びの機会は、期せずして訪れた。
財団のサイトが老朽化著しいとの事で、学びの一環でリニューアルを買って出る事にした。
これまでのサイトは欲しい情報がどこにあるのか、どうにもうまく探せない。
導線がすっきりしないのと、「私だったら、こうするんだけどな」
そんなふつふつとした想いが昂じて、ならばと手を挙げた。


制作にあたっては、何よりも尾崎財団の歴史を自分の中に叩き込まなければ作れない。
片っ端から尾崎の文献を読み漁った。
国会議員生活の最長不倒だけでなく、その原点は地方議員だった事やジャーナリスト出身の政治家のルーツである事、ワシントンに桜を寄贈したことや、果てには憲政記念館の由来でもある尾崎記念会館の設立経緯など、尾崎研究に没頭する日々が続いた。
これまでは意識する事のなかった、相模原の「咢堂弁論大会」にも足を運んだ。


尾崎だけではない、相馬先生の足跡を辿る事にも徹底的に拘った。
財団所蔵の未公開資料や秘蔵の写真なども、時には授業そっちのけで資料探しに没頭した。


行為としてのサイト制作は、さほど苦労する話ではない。
けれども、そこに至る動機や、何を掲載したいかという想いの発露に至るまでは何度も逡巡し、取捨選択を繰り返した。

そうして何とか形になったのかなと思えるに至ったのが、現在の「ozakiyukio.jp」である。

http://www.ozakiyukio.jp/

制作の経緯は以前のエントリでも触れたが、そもそもの動機付けはある意味での「卒業課題」のつもりだった。


サイト制作を生業にしているわけではないので、サイト自体の出来不出来に関しては寛大な評価を頂ければと思う。
少なくとも、過去に手掛けた誰のサイト、どのサイトよりも全力で取り組んだつもりだ。




昨年11月11日の完成を踏まえて、幾つか思った事がある。


ひとつは、相馬先生の問いかけでもある「学んであなたは、何をするの」。
その答えが、見つかった事だ。
これまでにも尾崎財団は様々な人が往来していった。
中には「今どき尾崎なんて、誰も見向きしねえよ」と心無い言葉を私自身掛けられた事もある。
これ以上にない罵声を浴びた事もあった。


その時に感じた悔しい思いが、奇しくも相馬先生の問いに対して答えを見つけるきっかけになった。
不思議な事に、その一言に感謝している。
お蔭で全てが「吹っ切れた」。


今の尾崎財団は、事務局長の石田さんが中心になって相馬先生亡き後の財団を支えてくれている。
そこに、加勢しようと思った。

いや、石田さんだけじゃない。
尾崎咢堂や相馬先生の意志を継がんとする先輩や仲間がいる。

そこにちょっとでも自分なりの提案をつぶけていって、何かが生まれるのが楽しい。
自分に出来ないことも、先輩や後輩に相談したらあっという間に筋道が見えて来たり、新たな活路が見えて来る。


自分にできる事は、ごくちっぽけなものだ。
それでもお役に立てるなら、これほど嬉しいことは無い。


もしも相馬先生がご健在だったならば。
問いかけに対して、はっきり答えられる。


「尾崎財団と咢堂塾を、石田さんや咢志会の皆と一緒に繋ぎます。」


ようやく答えのひとつが見つかった。
塾での学びは今回の15期でお仕舞いにしようと思っている。


それが、咢堂塾15期の10か月を学び終えての所感だ。

2014年2月21日金曜日

胸張って帰ってこい、ソチの戦士たち。

この2,3日は浅田真央選手の渾身の演技に一喜一憂し、
睡眠不足の日々を送っている。


幸いだったのは、SP(ショートプログラム)とフリーの
結果があの順番だったことだ。
最後に自身の納得がいく演技が出来て良かったと思う。

浅田選手の何が、観衆の胸を熱くさせるのか。
ベースとなる技術はもちろんのこと、不本意だったSPから
見事に持ち直した精神力もある。

天国から見守っているお母さんの存在もあろう。
それ以上に、「あ、これだ」気付いた事がある。
いずれ、何かの折に触れる事もあろう。


男子では、羽生結弦選手の金も良かったが
個人的には前回バンクーバー五輪の銅メダリスト・
同姓同名の高橋大輔選手の入賞も良かった。


奇しくも今回のソチでは高橋、浅田両選手ともに順位は6位。
メダルは無くとも、私は二人を誇らしく思う。
共に、世界で最も価値のある6位だ。

たまたま注目したのが男女フィギュアの代表選手だったけど
フィギュアのみならず、どの選手も懸命に闘ってくれていると思う。

日の丸を背負った戦士たちは、メダルの色や順位に関わらず
堂々と胸を張って帰って来てほしい。

2014年2月17日月曜日

知事選、ソチ、そして大雪

この1か月ほどに身の回りで起きた様々なイベントは
いずれも自分にとって近くもあり、同時に微妙な距離でもあった。


まず一つめ。
すでに決着がついて1週間が経過した都知事選は、投票権が無い身ながらも
いろいろと気を揉んだ出来事だった。
結果が吉と凶と出るかは判らない、それでも決まった以上は
少しでも良い方向に向かう事を願うしかない。


二つめ。
ソチ五輪に関しては、たまたま己の姓名が某有名選手と同じ事もあって
気を揉みながら滑走を見守っていた。
世代交代、完全燃焼。同じ名前を持つ身としてはお疲れ様でしたと心底思う。



三つめ、この週末に起きた大雪についても触れなければなるまい。
都知事選の投票前日に首都圏を襲った積雪も凄かったが、この週末は私が
上京して以来一番の激しさだったと思う。

もっと激しい積雪自体は故郷でも経験しているが、
備えが無い個所に対して、それこそ急所を突くが如きの自然災害だ。
亡くなられた方のご冥福を祈ると共に、自治体の役割の重さを感じる。
困った時の自衛隊、たしかに頼りになる存在ではあるが
駐屯地も基地もない私の田舎では「役場」が除雪の任を担ってくれている。



もう一つ、4番目の話題など。
この1か月ほどで改めて経験したのだけれども、私にとって
ソーシャル何とかの類はどうも肌に合わないらしい。
普段の仕事はメールと電話が有れば事足りるし、また
合わないものを無理に抱えていても心身ともによくないので
向かないツールに関しては取捨選択をする事にした。

手放す事による一抹の寂しさも、ないわけではない。
けれども、抱えたままで身が千切れるよりはずっといい。