2013年10月22日火曜日

ネットの作法、リアルの作法


これはつい最近経験した、他山の石とするべき出来事に関する雑感。

ある日、フェイスブックに見知らぬ「いいね!」が大量に紛れ込んできた。
その発生源を辿ると、フェイスブックで相互承認している知人の画像に
タグ付けされていて、そこにコメントやいいねが入る度に流れ込んできた。
もともと私自身、なんだかなあと思う人はFB上の繋がりから除外させて
頂いているし、またどうしようもない人の場合はブロックしている。
なので普段の使用上はさほどストレスを感じないのだけれども、
今回は予期せぬ出来事だったので正直困惑した。
そう、つまりは私も「タグ付けの設定」を施していなかったのだ。

だからといって相手は悪意があるわけでもないだろうし、
そもそも悪事を働いたわけでもない。
その一方で私自身が抱え込むのもそれはそれで小さなストレスになる。

たまたま私の周囲にも面喰っている人は数人いて、話を聞くと
やはり困っているという。
特にある友人の悩みは深刻で、周囲に誤解を与えるタグが付いてしまうと
業務にも差し障りがあるという。

私の場合は単純にタグ付けをオフにすれば良いだけの話なのだけれども、
その友人(仮に、Aさんとしておくことにする)の場合は全くのオフ設定も
「感じが悪い」と逆の誤解を与えかねないので、それはそれで困るという事だった。

フェイスブックもツイッターも日本に上陸して間もない訳ではない。
それでも、毎日のようにXX投稿の影響で刑事沙汰になったとか、中には
△△投稿のせいで閉店に追い込まれたという事件も珍しくなくなってしまった。

なに馬鹿な事やってんだかと思う反面、「そういう己はどうなんだ」
自問自答すると、私自身も「無かったことにしたい」メールや発信の
多いこと多いこと。
人の事なんか、到底言えない。
無知ゆえの失態をけっこう振りまいて来た事に、なんとも申し開きの
しようのない、ばつの悪い想いに駆られる。


「ははあ、タカハシ。さてはアレの事か?」

そんな風に感じた、拙ブログを読んで下さるあなた。
そう、あなたの推理は正しい。
きっとあなたも私も、同じことを連想している。
その節はすまない事をした。申し訳ない。

そう気づかせてくれただけでも、知己を通じてのタグ攻撃は
他山の石というか、何かの有難いお告げなのかも知れない。

もっともこうして懺悔めいた事を書き残したとしても
これまでの失態を取り繕う事はきっと出来ないだろうし、
失態ゆえに壊れ、修復しようのない関係もある。
その辺はデジタルもアナログも関係ない。
相手を思いやるゆとりや節度があったか。その一点に尽きる。