2013年7月17日水曜日

ヒゲの隊長・佐藤正久「自衛隊と国際貢献」

前回のエントリではヒゲの隊長・佐藤正久参議院議員の現在を、講演を通じてお伝えした訳ですが果たして参議院議員に転身される前はどうだったのか。

今から6年前、慶應大学の「日本論語研究会」での講演録を発見しました。
同会は自由民主党・政務調査会の田村重信調査役が主宰し、小泉進次郎・衆議院議員が「伝説のスピーチ」の呼び声高い講演をされた事でも知られています。
http://www.rongoken.jp/report/report201004.html




小泉進次郎議員だけじゃないですね。
番匠幸一郎・陸上幕僚副長や、イラク人道復興支援を陰ながら支えた陸上自衛隊・特殊作戦群の初代群長と務められた荒谷卓・明治神宮至誠館館長やら、防衛ジャーナリストの桜林美佐さん、軍事アナリストの小川和久さんまで講師に名を連ねていらっしゃる。
錚々たる会です。







その同門というか、ヒゲの隊長も講演されていたのは意外な驚きでした。
いわば、「小泉進次郎議員の先輩」な訳です。



たまたま、同会のホームページに当時の講演PDFが残されていました。
今回は、そうした「ヒゲの隊長の原点」を探るべく、当時の講演を追体験する形でテキストを転載させて頂きます。



第25回、平成19年3月17日 日本論語研究会
「自衛隊と国際貢献」
元陸上自衛隊イラク先遣隊長
「ヒゲの隊長」 ・参議院議員 佐藤正久



はじめに

 皆さん、こんにちは。
ただいまご紹介を頂きました「ヒゲの隊長」の佐藤です。本物です( 笑)。
皆さん、いかがでしょうか。よく「テレビと違う」と言われますが本物です( 笑)。
最近、痩せたものですから、同僚から「お前、イラク人に似てきたな」と言われます( 笑)。



 テレビというのは、全体を映すのには具合が悪いものです。どうしても一部だけを切り取って、それを全体として映す。その代わり、もの凄く影響が強いです。

 イラクでの人道復興支援についても多くの皆さんがテレビを見て知る。そしてイメージする。現場で動いた人間からすると、かなりの国民の皆さんが実際とは違ったイメージを抱いているような気がします。
 今日は、そんな現場の話をしたいと思います。


1.「郷に入っては、郷に従え」

 私が最初、先遣隊長としてサマーワに入りました。しばらくして、嫁さんに電話したら、
  「あんた何やってんの。あれだけ心配して送り出したのに、テレビで見たら、いつも楽しそうに食事ばかりしている」と( 笑)。

そんなことを言われました。でも現場はそんなに甘くはありません。
 サマーワに行く時に、当時の陸上幕僚長(先崎一・陸将)から部屋に呼ばれました。 「また怒られるのかな」と思いながら部屋に入りました。 「すぐに終わればいいな」と思って立ったままいましたら、 「佐藤。座れ」と言われました。

 そしてたった一言。
「佐藤。郷に入っては、郷に従え」

それだけでした。一言だけでした。

 それはどういう意味か。私は、その方とずっと一緒に仕事をしてきましたので分かりました。つまり、 「あとは佐藤に任せた、現場の風は現場でないとわからない。市ヶ谷ではわからない。しかし、現地にとけ込むことは忘れるな」ということだったんです。

 私が国際貢献の現場に立ったのは、過去に3回あります。
最初はカンボジア。これは外務省に出向している時に、ジーパンにポロシャツで情報活動をやった。
 2回目がゴラン高原です。そこで第一次のゴラン高原派遣輸送隊長として活動しました。
 そして3回目がイラク。それぞれ全く違います。

違うんですが、先ほどの陸上幕僚長の言葉は、今回がピッタリ合っていました。
 現地で約半年間、活動しました。その間、「郷に入っては、郷に従え」という言葉を胸に秘めながら仕事をしました。

 帰る直前、ある部族の長に呼ばれ、
「サトー、この地に残ってほしい。残ってサマーワの地を再建して欲しい」 と言われました。
そして、
「もしも残ってくれたら家もやる、土地もやる、嫁さんもやる」
と( 笑)。
「日本に嫁さんがいます」と言いましたら、 「サトー、そんなの問題ない」と言うんです。 「お前がイスラム教に改宗したら、四人までOKだ。日本に一人、サマーワに三人だ」 と言われました (笑)。


 それから日本よりイラクの方が挨拶は上手です。特にサマーワは、昔の日本が残っているような感じです。目と目が合えば、まず笑顔。知っている人なら近寄って行って握手をします。そしてホッペにキスをします。右、左、右とキスをする。
 昔の日本があったんです。



 日本に帰って銀座の街を歩いた時、本当に悲しくなりました。日本人は、まず顔が疲れています。そして、下を向いて早足で歩く。
 サマーワではあり得ません。私も何度もホッペにキスをされました。そして親しくなると唇にキスをする。おじさんに唇を奪われたことは何回もありました( 笑)。 それでも笑顔です。時には舌まで入ってきました( 笑)。 でも笑顔です。
 とにかく溶け込む気持ちがあれば何でもできるんです( 笑)。
 これが現場なんです。


2.「佐藤商会」開業

 今回、私たちは住民の要望を受けて仕事をしなければなりません。人道復興支援ですから。
 住民の要望を受けていない仕事をやっても評価されません。しかも仕事の場所は住民のど真ん中なんです。
 田舎に行けば、大勢の住民が近寄ってきます。だから住民との信頼関係がないと危ないんです。だから溶け込む気持ちが大切なんです。

 私たちは今回、人道復興支援をやる。日本政府からは三つの分野で仕事をするよう言われました。
 一つは「医療支援」です。
そして、汚い水をキレイにして配る「給水」。
もう一つは学校、道路などの「公共施設の修理」です。

 どの分野も治安さえ安定していれば、普通は民間企業がやる仕事です。ただ今回は治安が十分ではない。かつ生活インフラが不十分なため、自衛隊のような自己完結性を持った組織じゃないといけない。しかし、やっている仕事の中身は民間企業に近いんです。

 今までいろんな国際貢献をやってきました。
 カンボジアでは国連平和維持活動、その主任務は道路の補修。それはある意味、民間企業とは違う部分がある。やっていることは同じですが目的が違う。何のために補修するのか。それは他国の軍隊が通るためなんです。平和維持活動ですから、極端なことを言えば、住民の生活に直結していなくてもいいわけです。

 中国の工兵隊は穴しか埋めていません。その代わり早いです。
 それに比べ日本の工兵隊は遅い。丁寧なんですが、側溝まで掘らないと落ち着かないのが自衛隊の特性なんです( 笑)。

 今回は平和維持活動ではなく人道復興支援です。住民の生活に直結していないと意味がないんです。
 まず全体のマスタープランをつくる。一部から始めると 「おいおい、何で向こうの地域からやるんだ。俺たちのところもやれよ」 と言われます。そうなると、その地域が反自衛隊の温床になるんです。
 復旧と復興は違います。ここは多くの方が勘違いされています。
 今回のイラクもカンボジア、ゴラン高原のイメージで自衛隊の部隊を編成しました。つまり復旧をイメージしているんです。質は問わず、とにかく急いで元通りにする。これが復旧です。

 復興は、さらに高める。いいものにする。これが復興なんです。だから時間がかかる。
 「日本の戦後復旧」とは言いません。 「日本の戦後復興」です。だから中長期的な計画を持ってやらないといけない。

 イラクの人から見れば、私たちのやっていることは民間企業と同じなんです。しかも世界第二位の経済大国です。現地の人は勘違いしています。自衛隊とゼネコンを( 笑)。



 当たり前なんです。彼らは自衛隊として見ないです。とにかく 「世界第二位の経済大国である日本から私たちを助けに来てくれた」と。それだけなんです。区別ができない。私は「佐藤商会」の会長です(笑)。
「佐藤商会」という会社を初めてサマーワに出店するといった視点がないと失敗すると思ったんです。やっている場所は住民の真ん中で、やっていることは民間企業と同じなんです。


3.協力者を増やす

 私たちは先遣隊として初めて行きました。情報がありませんでした。
 なぜかと言うと、従来の平和維持活動と比べ、とにかく治安が悪い。奥( 克彦)大 使や井ノ上( 正盛)一書記官も亡くなりました。
 ですから事前に日本政府の役人も入れないんです。従来ですと、日本政府の役人が入って、その後で自衛隊が入る。それができない。
 だから先遣隊長が行って、現地を見て、調整をして、情報を取りなさいと。先遣隊が集めた情報によって本隊を派遣するかどうかを決めると。つまり情報を集めないと本隊の派遣につながらないんです。

 隊員は「怖い」と言います。住民の真ん中に行っても、誰が敵で誰が味方か分からない。全員が全員、自衛隊を好意的には思っていませんから。 「どうせお前らはアメリカから言われて来たんだろう」と思っている人もいます。

 向こうに行く時、隊員とその家族を交えた昼食会がありました。その時、ある隊員のお子さんが、彼の足元でジャレ付いていました。その脇では奥さんが泣いていました。



 当時は戦地に行くかの如く報道するメディアもありましたから、その奥さんは 「生きて帰って来ることができるんだろうか」と思っていたのでしょう。そういう光景を見る度に
 「何としても隊員を、無事に家族の元へ帰さないといけない」と思いました。
 そして市ヶ谷台から成田空港に皆さんに送られる中、出発しました。
特に女性の方の多くが泣いておられました。

 私の家族ですら、妻と娘は泣いていました。
そういう姿を見て、「絶対に帰って来よう」と誓いました。
恐らく男性の方は、私と同じ立場であれば、皆さんそう思うでしょう。

 しかし、仕事の場所は住民の真ん中です。情報がなければ動けません。最初から情報のネットワークがあれば動けます。それがない。
 まず地域の安全化を図るために協力者が必要です。彼らは、地元の人間で自衛隊に好意を持っている人、持っていない人が分かります。そういう協力者をいかに見付け、いかに増やすか。そういう人たちが多ければ多いほど安全が担保できるんです。
 敵対する人間に囲まれれば情報が入らない。そうなるとテロリストの犠牲になる。それが現実です。

 協力者を増やすことが大きなポイントなんです。そして住民の信頼を得る。これに勝る安全確保はないと思います。でも信頼を得るのは簡単なものではありません。人間関係もできていないのに信頼関係などできません。そこでいろんなことをやりました。
 1つ目は溶け込む努力。2つ目は住民の要望に応える。
3つ目は情報のネットワークの構築と情報発信。4つ目は私たちの組織文化を変える。

 一つずつお話します。


4.サマーワを愛し、イラクを愛する

 まず溶け込む努力ということです。
 もともとイラクの人は外国人が嫌いです。なぜかと言うと、あそこはメソポタミア文明の発祥の地なんです。チグリス川、ユーフラテス川という川があって、そこに肥沃な土地が広がっている。北にトルコ、東にペルシア、西にギリシャ、南にベルリン。いろんな人たちが、あの地で争いました。
 私たちは新参者です。まずは徹底的に安心感を与えないといけません。
 「私たちは皆さんの友人であり、与えることはあっても奪うことはない」と言いました。そして私が隊員に言ったのは、 「サマーワを愛し、イラク人を愛しなさい」ということです。安心して日本に帰るにはそうしないといけない。自分が持っている一番いいものを前面に出して現地の人の中に溶け込む。



 生半可な愛では、絶対に相手にばれます。本当に自分を愛しているかどうかは、目を見れば分かりますし、握手しただけでも分かる。

 私の好きな言葉は「信なくば立たず」を捩った「意なくば立たず」です。
まずは気持ちなんです。
気持ちがなければ何も始まらないんです。
 ところが日本人は、スーッと現地の人たちと同じ目線になれるんですね。これは日本人のDNAかもしれません。

 何より、現地の人たちの反応が違います。
 申し訳ないですが、欧米のNGOの方々は、口では宗教や文化を尊重すると言いますが、実際は、上からの目線で相手を見ます。ソファーにふんぞり返り、偉そうに指示をし、遅れてきても謝りもしない。



 気持ちがあれば時間の長短に関係なく信頼が生まれるんです。そこを徹底してやりました。
 私は隊員に対し「お前の仕事の仕方はイラクを愛していない」ときつく言うこともありました。


5.「鳥の目」、「虫の目」、「魚の目」

 2つ目に、いくら仕事をやっても、住民の要望に応えていなければ意味がない。
 当初、情報がないが故に、防衛庁・自衛隊の方針も、中身をカチッと決めず、比較的、緩やかにしていました。現場に合うように、ある程度、仕事の中身を変えてもいいという担保を石破( 茂)防衛庁長官からもらってきました。
  「仕事をくれ、仕事をくれ」 という人たちが多い中で、カンボジア方式で、学校や道路を直したら、彼ら現地の人たちの仕事を奪うことになる。自分たちがやっちゃいけない。できれば現地の人たちがやった方がいい。
 復興というのは、イラクの人たちの自立が目的です。教育支援型、あるいは管理施工型でやった方がいいんです。ですから「イラク人が主役、自衛隊と外務省は黒子」という方針を決めました。現場に合うようにしないといけないんです。
 大事なことは「鳥の目」、 「虫の目」、「魚の目」です。まずは「鳥の目」。全体像を見渡す。全体図を見てイメージアップをする。それを具体化して、実行可能なものにするのが「虫の目」です。 「現場に神あり、神は現場に宿る」という言葉がある。すべて現場にあります。私も現場を歩きました。
そして「魚の目」です。経済学者が言うのは、潮の流れの変化を読む目です。
 復興のデザインは間違いなく右肩上がり。同じではダメです。同じでは誰も評価をしない。そのためには、現地の住民の感覚と要望をできるだけ早め、早めにキャッチして先取りしてやっていく。そうしないと信頼は生まれません。
 そこで決めたのが先ほどの「イラク人が主役、自衛隊と外務省は黒子」という方針です。最初は抵抗がありました。イラク人を前面に出して、私たちは後ろにいる。でもいいんです。現地がよくなれば。
 今は結果を出すのが評価される時代です。防衛省も運用の時代と言われますが、その中身は私に言わせればスピードの結果の時代です。できるだけ早く結果をだす。自衛隊の運用も結果なんです。結果が出なければ意味がないんです。
 現地の人たちの一番の要望は電力でした。本当に電力が大切。暑くてもクーラーがない。テレビを見たくても見ることができない。夏場でも20時間停電します。
 それから農業です。人口の四分の三が農民です。あそこは塩害が凄いんです。土地が真っ白です。
「日本の技術で土地改良してほしい」と言われました。それから下水、ゴミ。 「何とかキレイにしてほしい」と言われました。でも私たちのやることは「医療支援」 、「給水」、 「公共施設の修理」の三つです。世界第二位の国の看板を背負っていますから、たくさんの要望が来るんです。
 ある部族からは「お前ら早く帰れ。日本の民間企業を連れて来い」と言われました。それが現場なんです。逐次、いい関係をつくるよう努力しましたが、最初からそうはいかないんです。


6.信頼を掴んで情報を得る

 3つ目の情報のネットワークの構築と情報発信。

 噂の世界では、私は3回殺されていました。一番のターゲットですから。目だっていましたからね。とにかく早く情報のネットワークを構築しないと私たちは危ないと思いました。
 どういう部族がいて、部族同士の関係はどうなっているのか。どういう政党があって、その政党同士の関係はどうなっているのか。

 一番、脂っこい情報をくれたのは、「アメリカは嫌い。イギリスも嫌い。でも日本は好き」という方でした。
 ある場所で情報交換もしました。それが大切なんです。そんな時、一番のポイントとなるのが食事なんです。昔、外務省にいた時も上司から「佐藤、外交はメシだ」と言われました。つまり食事は情報交換の場なんです。経済情報、安全情報。



 さらにそこで面白いことを言うと、もっとその輪が広がる。 「佐藤は面白い奴だ。うちにも来てもらおう」と。そうすると自然にネットワークができます。
 でも非常に大変です。イラクの食事。脂っこいんです。一番困ったのが紅茶。チャイと言いまして、コップの三分の一は砂糖なんです。それを並々と注いでくれる。かき混ぜても、かき混ぜても底に砂糖が溜まっている( 笑)。 甘いんです砂糖。私は佐藤ですが、シャレじゃありませんよ( 笑)。
 一ヵ所に行くと、少なくとも三杯は飲まなくてはいけません。しかも日本人が行くと、ご丁寧にペプシコーラとかセブンナップまで買って来てくれるんです。それも飲まなきゃいけない。溶け込む気持ちが大切ですから、多い時には紅茶を1日20杯、ペプシコーラを10本飲みました。
 しかも昼と夜は高カロリーの食事です。私が一番怖かったのは、サドル派の民兵よりも糖尿病でした。

 向こうのお年寄りから医療相談を受けましたが、そのほとんどが糖尿病です。当たり前です。あんなに甘いものを飲んでいるわけですから( 笑)。 お陰さまで私も境界型糖尿病と診断されました。こればかりは仕方ありません。職業病です。でもなぜ境界型糖尿病で治まったのか。理由は下痢です。
いつも下痢をしました。もともと不衛生ですから。食事でもご飯の上に羊の肉が乗っかっているんですが、ハエで黒くなっているんです。
 それから水が出てきます。いろんなものが浮いているんです。でも水は最高のおもてなしです。ですから飲みます。飲んで「おいしい」と言うと、おいしくないのを分かっていますから笑うんです。
 でもそうやって信頼が生まれます。
 しかも信頼を得るためには、空手形を切らないといけない。日本と違って、幹部が行くのに、 「持ち帰って検討します」では信頼されません。
 できるだけそこで空手形を切る。でも本当に空手形になっちゃいけませんから、空手形にならないように後で処理をします。

 そして情報のネットワークを構築したら、それを発信しなければいけません。
 そこで、私の部下で一番優秀な人間を、情報発信担当の幹部に任命しました。
 情報発信というのは、全員がやるんです。物を調達する人間も、復興支援の企画、設計をやる人間も、広報の人間も、イラクの人と触れ合う人間は全員、情報を発信する。そうであれば、できるだけ一つの方針の下で、計画的に、戦略的に発信した方がいい。だから頭のいい人間を任命したわけです。

 特に重点を置いたのは、部族長、政党指導者、宗教家といった有力者。彼らをできるだけ仲間に引き込み、いろんな情報をインプットする。私はそういう有力者との付き合いに時間を割きました。
 その中でも政党指導者と宗教者は特に力を入れた。政党というのは、サマーワの政党もバグダッドの政党もつながっています。手先ですから。
 狙い目は大統領、首相、有力閣僚です。なかなか彼らには会えません。でも、その政党の地域の有力者に情報をインプットすれば、彼らにも伝わるんです。
 大統領、首相、有力閣僚が「日本の自衛隊はよくやっている」と思えば、そのことが、さらに広まるし、安全も確保できるんです。
 それと宗教家。これが最も大切。中東地域は宗教の影響が大きい。いかに宗教家との関係を構築するか。
 サマーワはシーア派と呼ばれる人たちが多くいる地域です。シーア派で一番偉いのがシスターニさん。シスターニさんはナジャフという聖地にいます。私たちはナジャフには行けません。
 一番いいのは、日本政府のトップ、当時で言えば小泉(純一郎・内閣総理大臣)さんです。
小泉さんがナジャフに行って、シスターニさんと会談をする。笑顔で握手をする姿が報じられれば、これは隊員の安全にとっては最高の効果です。さらにシスターニさんから 「自衛隊はよくやっているんで、皆さん協力しましょう」という一言がでれば「鬼に金棒」です。

 でもそれは無理です。当時の石破長官も「行けなくてゴメン」の状況ですから。
 それならば、サマーワにいるシスターニさんの代理人との関係構築です。彼をこちらの側に引き寄せて、協力者になってもらう。
 結果として協力者になってくれました。そして彼からシスターニさんにアプローチをしてもらった。これが大きな効果を生んだんです。まさに情報発信です。


7.「組織体から機能体へ」 、 「調整型から朝令暮改対応型へ」

 4つ目は私たちの組織文化を変える。自己改革です。
 現地は日本じゃないんです。イラクなんです。結果を出すためには一部、自衛隊の文化を変えないといけない。特にこだわったのは「組織体から機能体へ」、 「調整型から朝令暮改対応型へ」 。
 自衛隊は団結を重視します。団体行動を基本とする組織体。
 私も中隊長、連隊長の時に、普通科部隊ですから500人、1,000人が一つの方向に動くような意識で訓練をさせた。
固まったら一つのことしかやらない。
少ない人間で多くのことをやって結果を出すためには機能体にならないといけない。
究極は一人ひとりが考えて行動する。
 京セラの稲盛和夫さんが言うような、アメーバ状態でいかないといけない。小さなグループで仕事をする機能体に変えるのが大切なんです。

 2つ目の「調整型から朝令暮改対応型へ」 。自衛隊は極めて調整型です。
 陸上自衛隊は特に八文字熟語で揶揄されます。「用意周到動脈硬化」と( 笑)。
これじゃダメなんです。現地では状況がコロコロ変わるんです。そういう時はリーダーの判断がすべてなんです。十名の長が朝に右と言って、昼になって左と言えば左なんです。
「話が違う」 、「聞いていない」なんて通用しない。柔軟に動かないといけない。

日本と違うんです。
 「ここはイラクだ、ここはイラクだ」と盛んに番匠( 幸一郎)第一次イラク復興支援群長も言いました。日本とは違うんです。



 少佐以上、三等陸佐以上は拳銃を持っています。向こうでは拳銃は意味を成しません。ライフル銃です。
 私の部下がイギリスの司令部の方に行きました。そこの規則は、ライフル銃を持たないと外に出ることができない。あちらは師団長、三ッ星の将軍ですら拳銃の他にライフル銃を持ちます。そういう発想は日本とは違います。そして一人一丁という発想も日本独特なんです。結果を出すためには一人2丁、3丁持ったっていいんです。そういう視点で目をこすらないといけなんです。何かあったら、自分が撃たないといけないという気持ちが常にあります。それが現場なんです。しかし、どうしても疲れてくると、そのことを忘れちゃうんです。

 ある時、警備の人間と一緒にいたら、犬が近付いて来ました。警備の隊員は犬の頭をなでようとし
ました。私は「やめろ」と大声を上げました。
 もし噛まれたら狂犬病になるかもしれない。日本ではなくイラクなんです。そこを考えていないといけないんです。
 これが現実です。


8.日本の歴史が後押しした

 信頼はなかなか生まれません。
 帰る前日、ある村で橋の開通式がありました。私が一番の主賓でした。私が部族と町の間に入り調整し、その橋を自衛隊がかけました。そこに看板がありました。アラビア語で「サトウブリッジ」とある( 笑)。
本当にビックリしました。



 帰る日、私たちは現地の友人たちに「さようなら」を言えませんでした。なぜかというと、私たちが、いつ、どういうルートで帰るかという情報が万一、テロリストに分かると迷惑をかけるんです。
 ですから日が上がる前の朝早くに出ました。日が昇って友人たちは現場に出ます。すると全部、新しい自衛官に変わっている。それを知って大泣きしたそうです。半日くらい仕事ができなかったそうです。 「ああ、ここまで信頼が築けたか」と思いました。
 当初の二ヵ月間、本当に厳しい状況でした。目の前が真っ暗になるような状況が何度もありました。番匠群長が本隊を連れてきた時、本当に嬉しかった。
 とても苦しいことが度々ありました。しかし、そんな時に私たちを後押しをしてくれたのが、日本の歴史と先輩が築いた基盤でした。
 1980年代前半までは、多くの日本企業がイラクにいたんです。サマーワの総合病院も日本企業がつくった。日本人の先輩の方々が、彼らといい関係を築いていたんです。
 現地の人たちの中には、わざわざ当時のお礼を言うために、私に会いに来た人もいました。本当に驚きました。
 先輩が築いてくれた信頼という基盤が残っていたんです。日本の先輩は本当に凄いと思いました。




先輩に感謝、感謝、感謝。

 それから日本の歴史にも助けられました。イラク人は日本の歴史をよく知っています。日本がアメリカと戦って負けたことや原爆を落とされたこと。だけど日本人全員で頑張って復興を成し遂げた。
 「日本人は凄いね」って言われます。日露戦争のこともそうです。あの小さな日本が、大きなロシアに勝った。そういうことを知っているんです。「いろんな意味で日本は凄い」と。そういうものに私たちは助けてもらいました。

 さらに、自分たちの努力というのも大切だと感じました。
 信頼と安全は自分たちの頭を使って、頭を使って、これ以上考えられないというくらい頭を使って自分たちでつくり上げるものなんです。アメリカ軍には頼れません。国連、もってのほかです( 笑)。
何でも自分たちでやらなきゃならないです。

 日本に帰って来てから、 「佐藤さん、決断する時、よく迷ったでしょ」と言われました。決断で迷うことはありませんでした。私が迷ったのは、決断の前に「理由ある決意」を持つことに迷いました。自分の部下を、自分の運とか勘に委ねるわけにはいきません。そのためには事前の研究がものすごく必要です。 「こういう時は、こうしよう」ということを考えて、 「理由ある決意」、いろんな引き出しを持っておく。後は決断。タイミングだけの話なんです。
すべては事前の研究なんです。



 そのように全員で頭を使って、苦労してやりました。苦労すればするほど日本が素晴らしく見えました。何だかんだ言ってもやはり日本はいい。これほど平和で安全な国はないと思いました。
 半年後に多くの隊員が成田空港に着きました。全員が「フッ」と一息つきました。 「いいな日本は」と。

 では、そんな日本をつくったのは誰か。すべて先輩なんですよ。私に言わせれば、古くは縄文時代から、ずっと日本の歴史、伝統、文化、自然環境を育んで来られた先輩なんです。
 そう感じさせたのが目の前にいたイラクの人たちでした。
 最初、一緒に活動したイラク人四十数名は大学を出ています。大学を出ても仕事がないんですよ。



政府が悪いから。そして彼らを雇いました。彼らは目の輝きが全然違います。 「教えてくれ、教えてくれ」と言ってきます。一生懸命なんです。



 金曜日、日本でいう日曜日に当たりますが、誰も休まない。 「働きたい」と皆さん言います。その中には、お金を貯めて、あの危ないバグダッドに戻って、大学院に通っている者もいます。 「いつか俺たちがサマーワを再建するんだ」という熱い思いを持った若者が目の前にいるんですよ。昔の日本の先輩の姿とダブりました。イラクの若者の姿を見て、そう思いました。
 私たちも次の世代に素晴らしい日本を残さなければならない。それは自衛隊を辞めた理由でもありますが、全員で頑張って、次の世代につなぐ。私たちの先輩たちが頑張って、頑張って、 「次の世代のために」 という気持ちを持って来られたのと同じように私たちも頑張らないといけないと、イラクで感じました。


9.おわりに

 私たちがイラクで頑張れた使命感の源は、支援を必要としているイラクの現実と日本国民の応援、この二つです。



 目の前に困っている人がたくさんいるんです。大切なのは何をやるか、やったか。結果がなければ国益に結び付かないんです。
 サマーワの街中はまだいいです。田舎の方に行くと本当に可哀相です。高校生、中学生の背格好をしていても、読み書きのできない子供がたくさんいるんです。一生懸命、ご両親と農作業をしている若者。もうガリガリの体ですよ。しかし笑顔は素晴らしいんです。目が輝いています。学校に行けば、屋根が落ちています。50度を超える炎天下の中、小さな子供たちが授業を受けています。





 ある隊員が折り紙を教えようとしました。でも手を動かす力がない。朝御飯も食べることができないんです。そういう姿を見ると隊員たちは、自分たちの子供とダブります。困っている人がいれば何とかしてあげたい。
 そして度々、日本から応援のメッセージが届きます。この二つがあれば頑張れます。
 世界には困っている人がたくさんいます。彼らの視点に立って、何かできないか、何か手を差しのべることができないか。ただそう思うだけでも十分です。そういう日本人が増えることを切に願っています。



 以上で私の話を終わります。ご清聴有難うございました。


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最後までお読み頂きありがとうございます。
例により、今回も転載や拡散は大歓迎です。

今でこそ参議院議員、防衛大臣政務官として大活躍されているヒゲの隊長ですが、政治家を志す前の原点はこういうところにあったのだなと改めて思います。
座右の銘の「意なくば立たず」も、ルーツはここなのでしょう。
今年のテーマが、安岡正篤師匠の「一燈照隅、萬燈照國」なのもうなずけます。

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