2013年11月15日金曜日

尾崎サイト製作メモ(ozakiyukio.jp)補足

前回のエントリで書き漏らした事があるので、
技術的なことをほんの2点ほど。

ブラウザベースのCMSが主流を占める昨今、なぜ
FTPベースのソフトでサイトを制作しているのか。
ひとつだけ、明確な理由がある。

http://ja.wikipedia.org/wiki/PHP:_Hypertext_Preprocessor

PHPは、確かに便利だと思う。
けれど、自動生成されるURLには私自身、どうも馴染めない。
逆に、私はこういうことがしたかった。

http://www.ozakiyukio.jp/thanks.html


URLにさえも、気持ちを込めたい。
htmlを自在に命名出来ることが、私には必要不可欠だった。



それともう一つ、サーバ選択には「Webフォント」を使えることを
前提条件にした。

http://ja.wikipedia.org/wiki/Web%E3%83%95%E3%82%A9%E3%83%B3%E3%83%88


もしも財団のサイトを訪れてくださった人が、文字の表示に注目していただけたら。
その見栄えは、この技術を導入しているお蔭だったりする。
どうしてもこの機能は外したくなかった。


それ以外は、特別な技巧は何も用いていない。
ひとつひとつのパーツに願いを込めながら作っている。
それだけなのだけれども、果たして訪問いただけた方の感想は
どんなだろう。

せめて僅かでも何かを感じて頂けたら、制作者としては
何よりそれが嬉しい。

2013年11月13日水曜日

尾崎サイト製作メモ(ozakiyukio.jp)

サイトを作るとき、作り手はどんな事を考えているのか。
施主の方にはあまり詳らかにする事はないのだけれども、
どんなサイトでも製作に没頭しているときは色々なことを
考え、そして悩んでいる。


去る11月11日に立ち上がったばかりの、尾崎財団の新サイトは
今年に入って手掛けたン番目のサイトになる。
http://www.ozakiyukio.jp/


過去に立ち上げたサイトの中でも、最も私の全力を注ぎこんだつもりだ。
今の私にできる、ありったけをぶつけた。

その過程で、こんな事を考えながらつくった、あるいは
ここを徹底的に意識した、そんな舞台裏を文字通り
「備忘録」として綴って置こうと思う。


話は今年の夏に遡る。
財団での私の兄貴分に当る石田尊昭さんの手伝いをする事になった。
その流れで講座のサイトを仮組みしたのが、振り返るとスタート地点に
なる。
いま思うとそれはそれでやっつけ仕事というか、デザインスタディ的な
位置付けで無料のWebスペースを借り、細々と立ち上げた。
それが、現在サブディレクトリ扱いになっている特別講座のサイト
だったりする。
http://www.ozakiyukio.jp/gakudo/


当時は広告付きで僅か50MBの容量しか貰えない、ちょっとした
お遊びのつもりだった。
それがいつしか細かなパーツを、それこそ「うなぎのたれ」を
注ぎ足すが如く暇を見ては直し、何となくすっきりしない箇所を
思い出しては修正の繰り返しで少しずつ形になってきた。

そうこうしているとだんだん欲が出て来るもので、どうせなら
財団のドメインで正式に運用できないものだろうかと思案するようになった。
そうした相談を石田さんに打診して程なく、財団のサイトそのものを
見直したいという話になった。


私自身、元々はこれまでの財団サイト(ozakiyukio.or.jp)を
インターネット上で見て憲政記念館を初めて訪れた経緯がある。
それゆえ有り難いサイトではあったものの、いざ自分が人様のサイトを
預かるようになってからは「ここ、何とかならないかな」と思う箇所も
ちょっとずつ意識するようになってきた。
そうしたお節介を石田さんにぶつけてみたところ、財団としても
同じ悩みを抱えているとのことだった。

それならいっそのこと、「やりましょうか」という流れになった。



リニューアルするに当っては、幾つかの課題があった。

1:ドメインの統廃合
2:導線の見直しと使い勝手
3:サイトで何をしたいのか
4:流行のCMSでなく、敢えてFTP主体でいく
5:何年でも使えるための将来設計


先ずは、ドメインの統廃合。
これまでの財団関連はメインの「ozakiyukio.or.jp」だけでなく
咢堂塾の「gakudo.com」、それと機関誌『世界と議会』の
「world-parliament.net」、つごう3つのドメインでそれぞれが
独立したサイトとなっていた。これを何とかしたいと思った。
ハード的には1台のサーバで各々のドメインを立てているのだろうと
察しがつきつつ、どうせなら一つのドメインで一元管理できればと
思っていた。


二つめの、導線の見直しと使い勝手。
これまでの尾崎財団、咢堂塾、そして世界と議会の3サイトは
それぞれが独立している関係もあり、お世辞にもシームレスとは
言い難い使い勝手だった。
加えて、探したい情報になかなか辿り着く事ができない、
自分の現在地がわかりにくい。
なので、階層の構造をあらかじめ固めてから一気に作り込んでいった。
最低限でも「パンくずリスト」や「サイトマップ」などのナビゲーション、
それとサイト内検索は欠かせない。
どのページにアクセスしても、迷った時はトップページに戻って
来れば済む構造にした。


三つめ、サイトで何がしたいのか。
意外と、これが定まっていないホームページが多い。
例えば企業ならその目的の究極は「儲かる」事に尽きるだろうし、
選挙のサイトなら当選に繋がる、言い換えれば「思わず票を投じたくなる」
ことに他ならない。
したがって、製作するにあたり自分は何をしたいのか、訪問者の方に
どんな印象を持ってほしいのか、どんな行動を促したいのかを徹底的に
掘り下げた。

辿り着いたポイントは4つだった。

1.尾崎行雄を「日本を代表する政治家」の一人と定義し、その精神を訪問者に問いかける
2.咢堂塾の設立者でもある尾崎三女・相馬雪香さんを現代に蘇らせる
3.財団に縁ある全ての人が誇っていただけるサイトであること
4.訪問者の「何かを変える」きっかけを提供できること

正味の製作期間は約2か月、その間は尾崎咢堂や相馬さんの書籍を
20冊ほど読み込んだ。
ある時は財団の書架(勝手に「咢堂文庫」と命名した)に入り浸り、
足りない本は身銭を切って買い求めた。
アマゾンのことも相当儲けさせたと思う。
可能な限りの情報を自分にインストールし、振るいにかけて残ったものを
徹底的に研ぎ澄ます。

耳触りの良い評伝だけでなく、坂口安吾の『咢堂小論』など、尾崎に対して
批判的な立ち位置の文献にも積極的に挑んでいった。

相馬さんの事は、自分にとっての原点を振り返りながら、思慕の念で
積み上げていった。
私自身、生前の相馬さんには縁なくお目にかかる事が出来なかった。
「すごい婆ちゃんがいる」はじめて意識した時には、すでに泉下の人となっていた。


私だけではない。
これからの人は、「相馬雪香さんをリアルで知らない」人ばかりになる。
せめて、相馬さんが大切にしていたものを色濃く出せないだろうかと苦心した。
ここ(=サイト)を訪れれば、相馬さんに逢える。
英霊に通ずる想いも少しばかり重ね合わせた。

そして何よりも大切にしたかったのは、財団や咢堂塾、世界と議会に縁ある
全ての人が誇れるサイトにする事だった。
サイトといっても、結局のところは文字と画像の組み合わせでしかない。
それらの組み合わせで、果たしてどうやったら目的を果たす事ができるのか。
心掛けたのは、一つひとつの構成要素を丁寧に作っていく、それだけだった。
そうした経緯もあって、思いのほか時間がかかってしまったが、新しい財団のサイトは
尾崎や相馬さんの所有物ではなく、もちろん製作者の私のものでもない。

私は、僕はここで学んだ。
かつて、この本に寄稿した。
ここで、こんな学びがあった。
訪問して下さる皆さん一人ひとり、憲政記念館を訪れて下さり
尾崎咢堂や相馬雪香さんに想いを馳せて下さる「あなたのサイト」だ。
そして、訪れていただいた結果として、何かを残せるか。
何かのきっかけをつくれるか。
出来ないとしたら、そんなサイトは何の意味もない。
訪問者の感覚に訴え、何かを促す事が出来ないとしたら、
そのサイトは存在しないのと一緒だ。


四つめ、どういったツールでサイトをこしらえるか。
最初は「Movable Type」や「WordPress」での立上げも考えたが、結局は
慣れ親しんだ「BiND」で行くことにした。
WebベースのCMSはネット環境さえあればどこからでも更新が出来る、
そのメリットは確かに多い。
けれどもその一方、手直しやマイナーチェンジを頻繁に行いたい場合には
そうした便利さがデメリットにもなる。
版数に応じた管理やバックアップ、将来的な管理体制を考えると
ローカル環境でサイトデータを製作更新し、FTPでアップロードする
オーソドックスなやり方で運用する事にした。
将来、私に何かあってもサイトは絶対に止めたくない。
更新管理のオペレーションも、将来的にはチームで回していけるように
するつもりだ。


そして最後の五つめ、何年でも使えるようにするために。
これはあらかじめ「動的コンテンツ」と「静的コンテンツ」を
明確に意識して、日頃手をいれる必要のないページと
頻繁に更新して行くページを明確に分ける事にした。
スタートの段階で決めたパートは、サイト内の全データの中でも
たったの3か所しかない。

1.お知らせ
2.講演
3.世界と議会

これだけだ。
それぞれのコーナーでの更新頻度をあらかじめ算出したら、
お知らせは月に数回程度。
現時点はリニューアル直後という事もあり活発だが、それでも
あっちこっちと追われないよう、「お知らせ」のページ自体は
年単位でまとめるように決めた。

http://www.ozakiyukio.jp/information/2013.html#1113

上の例で行くと、年度ごとのhtmlを一つ作成し、を月日(MMDD)で
区切って行く。年間トータルで見たらどれだけ膨大になるか、それとも
大した数にならないのかは現時点では解らない。
それでも、「普段はここだけ更新すればいい」とあらかじめ決めておくと
運営する身としても心理的な負担が少ない。

ちなみに「講演」は月に1回あるか無いかなので、就寝前のひと手間あれば
充分回していける。
「世界と議会」に到っては、四半期に1回でいい。
但し将来的には、1961年の創刊以来のインデックスを全て網羅する
つもりなので、それについては腰を据えて更新して行こうと思っている。
何しろ半世紀以上の歴史、まとめていくのはなかなか大変だ。

何年運営してくつもりなのか、それをあらかじめ見定めるのは意外と重要だ。
立上げは正直、ちょっとしたWebの製作スキルが有れば誰でもできる。
止めずに運営し続けて行く、なによりもそれが一番大変だ。
私の場合は「日本論語研究会」の更新が毎月あるので、それが結構な
トレーニングになっている。

続けていくこと、そして続いていること。
それが何より難しい。

その辺は、政治の世界で言われる「保守」の定義の本質と一緒だと思っている。
靖国参拝や国旗への敬意だけをとりあげるのではない。
「続いていくこと、続くこと」。それが全てだ。
なので私の中の保守は「コンサバ」でななく「メンテナンス」だったりする。
その意識が有れば、靖国も国旗もごく自然な所作になる。


尾崎財団のサイトを製作する過程では、そんな事を考えながら
誰も見ていないところで黙々と作業を進めていた。
特に名は明かさないが、途中途中で相談に乗って頂いたり、
作業がはかどらない愚痴に付き合って頂いたり、時には
文字通り手助けしていただいた人もいる。
一人ひとりに感謝を申し上げたい。


御陰様で、やっと難産の果てに産声を上げました。
改めて、ありがとうございます。
そしてこれからもご贔屓のほど、宜しくお願い申し上げます。

2013年10月22日火曜日

ネットの作法、リアルの作法


これはつい最近経験した、他山の石とするべき出来事に関する雑感。

ある日、フェイスブックに見知らぬ「いいね!」が大量に紛れ込んできた。
その発生源を辿ると、フェイスブックで相互承認している知人の画像に
タグ付けされていて、そこにコメントやいいねが入る度に流れ込んできた。
もともと私自身、なんだかなあと思う人はFB上の繋がりから除外させて
頂いているし、またどうしようもない人の場合はブロックしている。
なので普段の使用上はさほどストレスを感じないのだけれども、
今回は予期せぬ出来事だったので正直困惑した。
そう、つまりは私も「タグ付けの設定」を施していなかったのだ。

だからといって相手は悪意があるわけでもないだろうし、
そもそも悪事を働いたわけでもない。
その一方で私自身が抱え込むのもそれはそれで小さなストレスになる。

たまたま私の周囲にも面喰っている人は数人いて、話を聞くと
やはり困っているという。
特にある友人の悩みは深刻で、周囲に誤解を与えるタグが付いてしまうと
業務にも差し障りがあるという。

私の場合は単純にタグ付けをオフにすれば良いだけの話なのだけれども、
その友人(仮に、Aさんとしておくことにする)の場合は全くのオフ設定も
「感じが悪い」と逆の誤解を与えかねないので、それはそれで困るという事だった。

フェイスブックもツイッターも日本に上陸して間もない訳ではない。
それでも、毎日のようにXX投稿の影響で刑事沙汰になったとか、中には
△△投稿のせいで閉店に追い込まれたという事件も珍しくなくなってしまった。

なに馬鹿な事やってんだかと思う反面、「そういう己はどうなんだ」
自問自答すると、私自身も「無かったことにしたい」メールや発信の
多いこと多いこと。
人の事なんか、到底言えない。
無知ゆえの失態をけっこう振りまいて来た事に、なんとも申し開きの
しようのない、ばつの悪い想いに駆られる。


「ははあ、タカハシ。さてはアレの事か?」

そんな風に感じた、拙ブログを読んで下さるあなた。
そう、あなたの推理は正しい。
きっとあなたも私も、同じことを連想している。
その節はすまない事をした。申し訳ない。

そう気づかせてくれただけでも、知己を通じてのタグ攻撃は
他山の石というか、何かの有難いお告げなのかも知れない。

もっともこうして懺悔めいた事を書き残したとしても
これまでの失態を取り繕う事はきっと出来ないだろうし、
失態ゆえに壊れ、修復しようのない関係もある。
その辺はデジタルもアナログも関係ない。
相手を思いやるゆとりや節度があったか。その一点に尽きる。

2013年9月16日月曜日

最後の壁

数年前までは敷居の高かった動画配信も、スマホの普及で万人が気軽に
出来るようになった。
いよいよ、最後の壁を誰もが乗り越えられる。そんな時期が迫っている。

恐らく3年後の参院選(あるいは、衆参同時選挙になるんだろうか)、
いや、それを待たずに2015年に予定されている統一地方選の頃には
ブログやツイッターだけでなく、政治家が自らサイトを立ち上げる事も
普通になっているかも知れない。

実際、ブログやツイッターを開設するのと、サイトを運営更新するのは
さほど変わりない。
各ツールの更新に掛る動作を振り返ると、とてもよくわかる。

1:ログインする
2:文字を入力する
3:画像や動画をアップロードする
4:更新する

大半はこれだけで事足りる。
サイトの場合はこれらの他に、Webサーバへのアクセスが発生する。
中にはMovable TypeやWordPressのようなブラウザベースの
CMS(Contents Management System。要は、サイトを運営する仕組み)も
あるが、サーバーへのインストールやサイト自体のデザイン、
FTPの設定などがほんの少し面倒なのを除けば、基本的には1から4の
動作の繰り返しだったりする。

それについ最近は、無料でも手軽に洗練されたサイトを
立ち上げる事ができるようになってきた。
「Jimdo」や「WIX」、「Webnode」などを使えば、
誰もが一定のクオリティを保ったサイトを開設できる。

<Jimdo>
http://jp.jimdo.com/

<WIX>
http://ja.wix.com/

<Webnode>
http://www.webnode.jp/


テンプレートのアレンジから始めるので、オリジナリティを追求するには
それなりの経験を要するし、ページ間の繋がり(リンク)を考えなければならないなど
ブログやツイッターに比べたら手間が掛るのは否めない。
それに、フェイスブックのような「いいね!」が返ってくるわけでもない。

ただ、サイトをひとつ立ち上げた時の達成感は、ブログ記事を10件書くよりも
100回のツイートをするよりも遥かに大きい。

そしてなにより「伝えたい事がはっきり」してさえいれば、
それだけでも魅力的なサイトに仕上がる。

最近オープンした知己のサイトが、それを証明してくれている。
本人曰く「不器用ながら」とはいうものの、私は充分立派なサイトだと思う。

<気仙沼バレエソサエティ>
http://kesennumaballet.jimdo.com/


じっくりサイトを眺めると、本当に「いいな」と思う。
応援したくなる。
うん、お世辞抜きに、いい。

なぜそう感じるのかと自問自答して、はたと気が付いた。

1:作り手の、サイトの主役への想い入れが有るか無いか。
  ここでは現在のソサエティ代表・高橋知子さん、そして小さなバレリーナたち。
  そういう目には見えないものが、行間から溢れている。
  
2:何を伝えたいのかが、明確になっているかどうか。
  これは全てのサイトに言える事なのだけれども、それがあるだけでも
  違ってくる。

ITスキルの巧拙や、グラフィックデザインの素養といった美麗さは、
それはあまり関係ない、以上の2つさえ押さえたら、
それだけでも良いサイトになるのだろう。
そして、作り手の想いとサイトの主体の想いがシンクロすればするほど、
ホームページやサイトといったものは、どんどん良くなり充実していく。
伝えたい、知って欲しいという想いがあれば、技術は後からついてくる。

アクセス解析や検索エンジン対策、コンテンツのブラッシュアップなど
「もう一段、あるいはもう二段」上げるための方法論というものは
誰もが出来るわけではない。それに手間もかかる。
こうして書いている私自身でさえ、満足に至る事はそうそうない。

それでも、せっせとこしらえたものが世界中の人の耳目に触れる、
自身の発信を誰かに見つけて貰える喜びや、自らの発信が誰かの
プラスに作用するといった、伝わる嬉しさとでも言うんだろうか。

多くの人が、意識していないだけなのだと感じる。
メールが届く。つぶやきやエントリが届く。サイトを見てくれる人がいる。
一見すると当たり前のように感じられる、その事の凄さ。
そこに気付いていない政治家が多い。

ここ暫くはネット選挙の話題を引っ張る形で同種の話題が続いてしまった。
それでも、政治家をSOHOに置き換えたら「まだやってないの?」というレベルの
話でもある。
そういう意味では、公職選挙法の縛りやネット選挙の解禁に関わらず、
政治家のネット活用自体が遥かに遅れているんだなと改めて感じる。
市井の人たちはどんどんやっている。政治家の世界が(たぶん)一番遅れている。


いずれにしても、ホームページの開設や運営が特別な事ではなくなる、
そういう時代がすぐそこまで来ている。
そうしたインターネット発信における「最後の壁」が崩れた時、
政治の分野におけるインターネットはまた一歩前進するんじゃないだろうか。
そう思っている。

2013年9月14日土曜日

高橋茂さんの本、2冊(後編)

前回のエントリでも触れた、「安曇野のネット軍師」こと
高橋茂さんの著作。
勢い余って、迷わずもう一冊も注文した。



<電網参謀 「デジタル軍師」が語る自伝的ネット戦略論>
http://www.amazon.co.jp/dp/4886462014

2冊併せて読むと、ネット選挙の夜明け前と現在進行形を
知ることが出来る、それこそ年代記のような感慨に包まれる。

最新作の『マスコミが伝えないネット選挙の真相』ではネット選挙というか、
ネットポリティクス全般に渡り広範囲な考察を披露頂いており、とても勉強になった。
こちらは氏の初陣となった長野県知事選で、まったく政治との関わりがないところから
如何にして最強の軍師になっていったかが綴られている。
こちらの方が、個人的には興味をそそられた。


「共感」なのかも知れない。
私がこっちの本をより面白いなと思うのは、幾つか理由がある。
私自身の「IT事始め」がWindows普及の前後だった事や、
大学のレポートがWordでなく「ワープロ」だったこと。
「電子メール」というものがまだ一般的でなかったこと。
「ぴーひょろろ」の音が懐かしいモデムを知っている世代であること。
「スマホ」も「光」も無かった時代。
とにかく昔は「ないない尽くし」だったことが伺える。
その分、どうやって伝えるかという本質の部分で苦心する。
制約の中で、あれこれと知恵を絞る。
どうやって効果的に使いこなすか、試行錯誤を繰り返す。

かれこれ6年前の参院選からのキャリアしか持ち合わせていない私でも
そう思うのだから、高橋茂さんの場合は、それこそ生き字引のような方から
眺める今のIT事情はどうなんだろう。
自分の拙い経験と照らし合わせて読むとなるほどと思うし、
同時に「そこまでは思いつかなかった」と目から鱗の戦術も沢山あった。
むさぼるようにページを捲った。
『マスコミが伝えない~』が最新ヒットなら、
『電網参謀 ~』は定番のクラシックといったところか。
その分野に興味の方は、是非とも併読されることをお奨めしたい。


余談だが、本書ではメルマガの連載小説
「天国のいちばん底」配信の舞台裏についても紹介されている。
『勝谷誠彦のxxな日々。』読者の私には良かった、なんとなく
得した気分。

2013年9月12日木曜日

高橋茂さんの本、2冊(前編)


この名前に反応する人は、恐らくよほどのネット選挙通に違いない。
もしくは、熱狂的な「カツヤさん」のファンかも知れない。

いつも購読しているコラムニスト・勝谷誠彦さんの有料メールマガジン
「勝谷誠彦のxxな日々。」、そのバックヤードを支えているのが世論社・代表取締役の
高橋茂さん。つい最近、ネット選挙にまつわる本を上梓されたとメールマガジンの
付録「週間迂闊屋」で知り、興味の赴くままにAmazonで注文してみた。



『マスコミが伝えないネット選挙の真相』
http://www.amazon.co.jp/dp/4575154172

私自身は別にその世界で碌を食んでいるわけでもなく、何人かの選挙を
IT面で支えたといっても下手の横好きというか、成り行きで助っ人をしてきたに
すぎない。
同じ高橋でも氏に比べたらそれこそ足許にも及ばないのだけれども、
それでもネット選挙というかネットポリティクス、いやインターネットの
可能性を感じて様々な試みをしているという点では、接点が無いながらも
尊敬する先達である。
私の何歩も先を進んでおられる方なので、とても興味深く読ませて頂いた。

実際に動いている人の記録と言うのは案の定面白く、これまでのネット選挙関連の
書籍の中では最もエキサイティングな一冊だった。
方法論や技術論に留まらず、信念というか核心というか。
「そうそう、そうなんですよ」ページを捲りながら何度頷いたかわからない。

アマゾンのレビューにも、以下のような感想を綴った。

~~~
選挙を知っていてもネットの事は詳しくない、ITに長けていても選挙戦の機微はわからない。
有権者や第三者で理屈を並べても、内側は垣間見えない。そういう本が溢れる中、
本当に「やっている」人の論考は、本質論としてもテクニックとしても満足できる。
「そうそう、そうなのよ」「本当に分かっていないと書けないよね」
膝を叩きながら、あっという間の221ページだった。
本書の4ページ目に書かれた一節が、何よりも秀逸だった。
発行間もないので、著作権を侵さない事を願いつつ敬意を込めてそこだけ引用したい。
「あなたたちが、今までどんなことをやってきて、ふだん何をやっていて、これからの日本をどうしたいのか。
それが知りたいんだけど。選挙期間中はそれを伝えてくれればいい。インターネットはそのためにある。」

行き着くところは、畢竟そこなのだろう。

~~~

私などは各分野のエキスパートでもないし、せいぜい「何人か手掛けた事がある」
程度に過ぎない。
それでも、かじったからこそ前述の数行に込められた意味の大きさが解る。
本当に、それしかないのだ。
除隊の置き土産がわりにこしらえた「四方、波高し」も、それをまとめた時は
意識しなかったのだが、改めて読み直すと氏の提唱するエッセンスそのものだった。

所詮、本人の中身や人となりに勝るネット戦術などは存在しない。
なので私が政治家の先生方や候補者の方にアドバイス差し上げる際には
いかにして本気度合や真摯さ、情熱を表に出すか、その点に重きを置いている。

残念ながら、それを体現していると感じさせてくれた候補はだれだけいただろう。
高橋茂さんの最新刊を読み終えて、そんな事を思い出した。

2013年7月18日木曜日

ヒゲの隊長が育てた男


参議院選挙もいよいよ終盤戦。
参議院は任期6年、その半数が三年おきに刷新される訳ですが、
今回は番外編としてヒゲの隊長の折り返し地点、3年前にスポットを当てます。



航空自衛隊出身・宇都隆史参議院議員。
氏の政治キャリアは、ヒゲの隊長の門下生として始まりました。
間もなく今年の選挙も残すところ3日ですが、3年前は果たしてどんな演説を残しているのか。
これまでにも方々で拡散頂いているようです。
ヒゲの隊長に重ねて、しばし耳を傾けて頂けると幸いです。


平成22年7月10日、於・西船橋駅前
  自由民主党比例区候補 宇都隆史
 「宇都隆史 最後の叫び」
http://www.youtube.com/watch?v=rj2JH7oYHXI



今、政治に最も期待する事は何ですか

皆さん、こんばんは。
いよいよ、きょうが最後です。あと最後の30分、持てる力のすべてをこの西船橋駅の前で、皆さんのお一人お一人の心の中に、私のすべての熱を伝導いたします。
あらためまして、参議院比例候補、元自衛官の宇都隆史です。

選挙戦が6月24日から始まって、今ちょうど17日目。
この17日間の各候補者の声を、皆さんはどのように受け止められていますか。
私は私なりに、自分以外の候補が、これは自民党の候補だけではないです、ほかの政党の候補も、いったいこの選挙戦を通じて国民に何を訴えようとしているのか。
この事を、全国を巡って歩く時間の中でリサーチをしていました。

大抵の候補者が語っていることは、何ですか。
消費税に関する事、あるいは、今回の菅政権の目玉である社会保障に関する事。この事ばかりを各候補者が声高に訴えて、自分に票を入れてくれ、こういうことをしている訳なのです。

先日、ある新聞の中で、有権者や国民にこういうアンケートを取っていました。
「今、政治に最も期待することは何ですか」。

30数%で1番の回答は、社会保障、福祉関係の話だったんです。
年金、医療、介護、子育てにまつわる事です。
そして、2番目の回答は、自分たちの消費にかかわる消費税の問題、これが2番目だったんです。
国民の今、関心が高いことはその二つだ。
しかし、そうでしょうか。
我々有権者は、誰を選ぼうとしているのか。
今から少なくとも6年間、我々の祖国・日本国の舵取りをしようとしている人間たちを選ぶ選挙なんです。
有権者の関心の高い事、それが福祉や、あるいは消費税の事にあるのは、これは当然のことだと。
普段の生活の自分たちの中で、自分にいったい、どういうメリット、デメリットがあるのか。
それほどに有権者の皆さんの関心が高くなれば、当然じゃないですか。

しかし、国民の関心が一番高いことと、国会議員になろうとする人間が、国家の優先順位として今語らなければならないことは、一緒じゃないんですよ。
国会議員になろうとする人間が、50年後、あるいは100年後の我々の子や孫の時代を考えて、有権者の能力と見識を信じて真剣に向き合わないで、いったい誰が未来を語るんですか。


メディアは、未来を語らない

メディアは、未来は語らないんです。
メディアは商売主義の中で我々が関心の高いことだけを、商売としていろいろなニュースソースを持ってきて話をするだけなんです。
国会議員の仕事は決して、国会の中で法律をつくるだけが仕事じゃないんですよ。
国会議員の一番しなければならない仕事は、自分の経験と、見識と、そして信念に基づいて、有権者、そして、国民に何を今考えなければならないのかを訴え、活動をすることが国会議員の一番の仕事なんです、そうじゃないですか。

今、有権者の中で、外交であるとか、あるいは国防であるとか、あるいは教育であるとか、こういうことを語る者が少ない。
この事にまず、私は危機感を覚えているのです。


強過ぎる福祉は国を滅ぼす

社会福祉に手厚い国家、それも確かにいいでしょう。
しかし、私は勉強は足りないかもしれないですけど、私が勉強してきた範疇の中で、社会福祉を強めた、社会福祉に力を注ぎ過ぎた国家で、国家の繁栄を誇った国を見たことがない。
強過ぎる福祉は、必ず国を滅ぼすんです。

国会議員は、国民の「受け」だけを狙って、福祉だけを語ってはならない。
社会福祉に手厚い国家を想像してみてください。
自分に対して、どのようなメリットがあるかではなくて、子どもたちや孫たちの世代に、いったいどういう負の負担を残すのか、あるいはプラスを残すのか、そういう判断基準で国政選挙は選ばなきゃいけないのです。

生活保障もいいでしょう、弱者に対する救済もいいです。
でも、この国には何万というぎりぎりのところで生活をし、これ以上生活保護をもらったり、あるいは公的な援助をもらうのは恥ずかしい、何とか自分の足で立ってやろう、そう思って頑張られている人間が何万といるんですよ。

そういう人たちよりもですよ、手厚い社会保障を受けて、保護を受けて、勤労の意欲を失い、仕事をせず、毎日をゆっくりと暮らしていける人たちのほうがいい生活をしていったら、この国家から勤労の美徳というものはどこに行ってしまうのですか。
日本人のすばらしさは、働くことに対して喜びを見出すという民族なんです。
生涯現役などという言葉は日本にしかないんですよ。
外国には、できるだけ若いうちにたくさん稼いで、年を取ったらゆっくりバカンスをしようと、こういう考えが普通なんです。


日本人とは何か。私は?あなたは?私たちは?

しかし、日本人は違うじゃないですか。
体が動く限り働こう、働けているうちが幸せだと、我々はそういう民族なんです。
そういう民族であれば、そういう民族の特性に応じた社会保障のやり方があるじゃないですか、そうでしょう。
親が、ぎりぎりのところで働いて子どもを育ててくれる。その親の姿を見て、背中を見て子は育つんです。
だから、自分も大人になったときに、子どもを養い、家庭を持ち、時に不運な人生を歩む人もいるでしょう。
会社がいきなり倒産するかもしれない、あるいは、悪い人にだまされてしまうかもしれない。
でも、それでもくじけないんですよ、親を見ているから。
あんなに物がない時代、食べるものがない時代でも、お父さん、お母さんは、あんなに頑張って僕を育ててくれた、私を育ててくれた。
でも、じゃあ、家庭は貧しかったから幸せがなかったかと言われれば、そんなことはないんだ。
そこに笑顔があって、団欒があった。
私もそういう家庭を築きたい、そう思うから頑張るんじゃないですか。

年を取ったときもそうなんです。
一から十まで国が保障をし出したら、子どもは親の面倒を見なきゃいけないと思わなくなるでしょう。
若いころに、あれだけ苦労して自分たちを育ててくれた、そのお父さん、お母さんが、年金や社会保障の中でぎりぎりの生活をして暮らしている、それでも生きていけるんです。
でも、若いときにあれだけ苦労してくれたんだったら、年を取ったときぐらい、自分の力でもう少し豊かな生活をさせてあげたい。
子どもはそう思うんですよ。
だから、「ふるさとに帰ろうかな、お父ちゃん、お母ちゃんを呼び寄せようかな」、そうやって親の面倒を見るんじゃないですか。
一から十まで国が面倒を見始めたら、そんな気持ちも湧かなくなる。

また、子どもと一緒に暮らせない人もいるんです。
でも、そういう人はお年寄り同士で生計を立てるんじゃないですか。
お互い、助け合うんですよ。
独居老人の中で、知らないうちに亡くなっていく方がいっぱいいるんです。
でも、そうならないよう、お互いに連絡網とかをつくりながら、声をかけ合って頑張っていくんです。
そんな中でも、どうしても心が折れた人、はい上がれなくなった人、その力を、心の力を失った人に、最後に手を差し延べるのが国の公助なんですよ。


自助、共助、そして公助

基本は自助なんです。
自分の足で立って、歩いていくことが、国民にとっての一番幸せな生き方なんです。
それができない時に、お互いに共助として助け合う、最後に駄目だった時に、国が温かい手を差し延べる「公助」。
これが、我々日本人が心から望んでいる社会保障のあり方なんです。

しかし、国が差し延べるこの温かい手、これにいつまでも載せておくことが本当に、国が国民を愛していることなのか。
私は時折、社会保障を声高に言う政治家は国民を本当に愛しているんだろうか、こういう疑問まで出てきます。
だって、そうじゃないですか、温かい手のひらに愛している国民をいつまで載せておく、そんなことしないでしょう。
お子さんのことを考えてみてください。
自分の子どもが心が折れた、あるいは大変な壁にぶつかったときには、「帰ってこい」と言いますよね。
でも1週間、あるいは1カ月したら何と言いますか。
「おまえ、いつまで何やっているんだ、もう一回頑張ってこい」。
背中を押すでしょう、お尻をたたくじゃないですか、それが親の愛じゃないですか。
国の愛も必要なんですよ。
いつまでも、温かいぬくぬくとした手のひらで抱いていくことが、本当の国民に対する愛情じゃないんです。
そこからはい上がれるように、働く場所を見つけてあげて、何とか努力する方策を見つけてあげる。
そのための犠牲、支出は問わない、それが、国が国民に対する社会保障の一番の愛なんです。
その事をもし、民主党政権が言うのであれば、私は協力する。
自民党であっても最大限に協力します。
でも、道が違うから、そんなことをしては国民を駄目にする。
だから、私は反対するんです。


策ではない、いかに生きるかだ

今、私たちが政治にいろいろなものを求めていますでしょう。
でも、私は景気が回復したり、あるいは社会保障を充実しても、我々今、この国に生きる日本人が、本当の意味での今の枯渇化、あるいは少産化、これをぬぐい去ることは政策なんかではできないと思っているんです。
なぜか。
私たちが日本人としての生き方、あるいはこの魂の枯渇感を取り戻すには、どうやって命を使ったら、我々の今を生きる「生」が輝くかということを真剣に考えなきゃいけないんです。
これまで、我々の日本の民族にとって、死は身近にあったんです。
戦後、あの大東亜戦争が終わったときに、世界各国から日本人は驚愕の目で見られた。
なぜか。日本人はこの地球上で唯一、「死を恐れない民族」だと言われたんです。
これは決して軍事中の軍事教育や、強制的な狂信的な考えを持って死を恐れなかったわけじゃないんです。
昔は日本人にとって、この自然の中のサイクルを見ている民族にとって、命が尽きるというのは当たり前のことだったんですよ。
今のように刹那主義じゃなかった。
「命が終わってしまったらおしまい、生きているうちが花だよ」って、そんなんじゃなかったのですよ。
肉体なんていうものは、魂を入れておくための殻でしかないということを理解していたんです。
だから、私たちは、魂を子どもたちに伝達して、縦の命のつながりをつなげていった民族だったんです。


知覧特攻隊が、私たちに遺してくれたもの

私は、鹿児島の生まれです。
65年前に鹿児島知覧や鹿屋から、私よりも若い青年たちがこの国を思い、志を立てて南の空に散っていった。
ある人たちは、「それは強制されて行ったんだ」、あるいは、「洗脳されて行ったんだ」、そういう事を言います。
でも、そういう事を言う人は、あの知覧の資料館の、あの若者たちのまなざしを見て本当に言えるか、私はそう思うんです。
あれは、決して狂信者の目なんかじゃないんですよ。
強制をされて嫌々行った目じゃないんです。
あの目を一言で言うとすれば、自分の命の使い方、生きるということはどういうことなのかを悟った眼差しなんです。

「この戦争の時代に、自分は生まれてしまった。
自分の命は短いだろう、しかし、この時代に生を受けたことは仕方がない。
だけれども、決してこの先祖から受け継いだ命を無駄に使うのだけはやめよう。
何とかして、この命をうまく使って、子どもや孫たちに、この美しい祖国、日本人の魂を受け渡していこう」。
そうやって、この国の未来を願って止む無く死んでいったんです。
だから、我々は、今この平和な世界の中で生きているんですよ。
今我々が、自分たちのことだけを生きて、政治にサービスを求め始めていったいどうしますか。
我々は、命を懸けてでもこの平和な国を残してくれた、65年前に、あの世界を帝国主義の名の下に席巻したアングロサクソン民族に、たった一国、果敢に立ち向かった亜種民族の末裔なんですよ。


何をしてくれるかじゃない、自分が何を遺せるか

我々は今、国に、政治に要求することは、自分に何をしてくれるかじゃないんです。
我々が政治を通していったい子どもたちに何を残せるか、このことを真剣に考えていかなきゃいけないんです。
我々がそれをやろうと思ったら、一つしかないんですよ。
国防を考えなくてはいけないんです。
私は自衛官だから、自衛隊出身者として国防の重要性を言っているんじゃないんです。
自衛隊出身者だから、仲間たちの予算が欲しくて国防の重要性を訴えているんじゃないんです。
国防ということを我々は考えたら、必然的に命よりも重いものがあるんだな、命を懸けてでも守らなきゃいけないものがあるんだな、このことに向き合うことができるんですよ。

この国が全くもっておかしくなったのは、戦後のある瞬間から。
国会議員がこんなことを言ってから我々日本国はおかしくなった。
「日本人1人の命は地球より重い、命よりも重いものがない」。
こんな馬鹿げたことを言い始めたんです。
そんな筈はないでしょう。

もしそうだとしたら、なぜ、母親は自分の命のリスクを冒してまで子どもを産むんです。
ねえ、妊娠、出産なんていうのは、非常にリスクの高い人間の営みですよ。
我々は産まれながらにして命を授ける、つなげるということは、自分の命を守ることよりも大事なことなんだということを、DNAの中に組み込まれて知っているんです。

だからこそ、国防を真正面から捉えて、いかにしたら子どもたちを、我々の手で、この国を残していけるんだろうか、他国に委ねたってだめなんですよ。
他国に自分たちの子どもを委ねる馬鹿がどこにいますか。
自分の子どもを守るのは自分でしょう、隣のご両親に自分の子どもを守ってくれなんて言わないじゃないですか。
我々の使命の源は、我々の子どもたちなんです。
その子どもたちを、唯一守っていけるのは、今この地球上の日本国の上に生きている日本人の我々だけなんですよ。


我々が、65年前の祖先がしてくれたのと同じように、今やらなければ国がなくなる、その分水嶺に差しかかってるのが今なんです。
あと5年してください、あと10年して見てください。戦争の体験者はもういなくなるんですよ。その語り部なんかはいなくなるんです。
我々に、真の命を見守って教えてくれた世代がいなくなったときに、私たちは本当に命の伝え方を教えていけるか、今こそやり直さなきゃいけないんですよ。

たった5年前に、こんなアンケートがあった。
世界36カ国の国々に、あるリサーチ会社がたった一つの質問を行ったんです。
それは若い成人男女1,000人に対するアンケートでした。
「あなたは戦争が起こったら、自分の国のために戦いますか」。
男の人にも女の人にも質問したんです。
我々が国際社会の中でしのぎを削っていかなければならないありとあらゆる国々が、最低でも50%以上の国民が、「そのときは命を懸けて子どもたちを守る」、「イエス」と答えたんです。
5年前です、我が日本国の国民たちは、1,000人と侮ることなかれですよ。
いったい、36カ国中何位で、何%の国民がイエスと答えられたか。
36カ国中、36位。最下位だったんです。
15.6%の国民しか、「この国を命に代えてでも子どもたちに託そう」、そう答えられなかった国の襷(たすき)が、つながるわけがないじゃないですか。

我々は今、やり直しましょう、
今やらなければ、もう取り戻せない、私は訴え続けます。国民の皆さんに訴え続けます。そして、国会議員になろうとする人間が、あるいはバッジをつけた人間が、一度、「国民の皆さんに」という言葉を発したら、今この世の中に生きている有権者のことだけじゃないんです。
もうお亡くなりになった日本の国民、今を生きる国民、そして、これから生まれてくるであろう日本国民のことを考えた政治をやるべきなんです。


服務の宣誓



私は元・自衛官として、宇都隆史、自衛官として、集参の前に服務の宣誓に調印をさせていただきました。



服務の宣誓という誓いの言葉の中に印鑑を押さなければ、自衛官は制服を着ることができません。ほかの国家公務員には決してない一文が、そこには入っている。

「事においては、身の危険を顧みず、身をもって責務に邁進し、もって国民の負託に応えるものとする」。

一言で言えば、これは国家に忠誠を誓うという約束をしたということなんです。
自衛官は決して、政権に対して誓約をしているわけじゃないんです。

今、自衛官が民主党の中で四苦八苦している。
非常に苦労している。
でも、今の現職自衛官が腐らずにやっていけるのは、我々が民主党に誓約をしたわけじゃない、この国家に命を懸けた社稷(しゃしょく)の臣なんだ、そういう矜持があるからやっていけるんです。
私はこの現場の声、現場の努力を決して忘れない。

現職の自衛官、あるいは自衛官じゃなくても、この国を心から愛し、この国の子どもたちに自分の命を使ってでもつなげたいと思っている国民がまだ大勢いるんです。

その一人一人が、力をつけて心をつないでいけば、必ず日本は良くなります。
政治に、あるいは、一政治家に期待をするのはもうやめましょう。
政治は、期待をするものじゃないです。
政治は、自分たちでつくり上げて、政治家を育み、自分たちの声を代弁させるものなんです。


いよいよ明日です。
6年間、仕事をしてもらえる国会議員を皆さん一人一人の手で選びます。
政治の中で最大の今クライマックス、選挙という民主主義において、最大の今瞬間を我々は迎えているわけなんです。
そのときに、最後に一つ、皆さんにお願いと、これだけはよく理解して投票をしてくださいということを申し上げます。
選挙の主役は政党でも、候補者でもないんです。選挙の主役はこの国家の主権者である皆さんなんです。
皆さん一人一人がこの国のことを真剣に考えて、明日、最大の民主主義のクライマックスである参議院選挙、この一日を過ごしてください。
あした、夕方から、8時からの投開票で、皆さんとともに、所思、心から、我が国の新たな一歩を踏み出そうと、祝杯を挙げられることを心から願っています。

最後でありますが、元自衛官です。
自衛官の中で10年間揉まれながら、一つだけ、よくよく理解できたことがありました。
それは、この世の中で国家を守る最大の武器は何か、このことを私は現場に身を置きながら学ぶことができた。
それは核兵器なんかじゃない。
国家において最大の護身刀は、我々国民の国を守ろうという一人一人の気持ちの集大成です、ぜひ、皆さんでこの国を守っていきましょう、ありがとうございました。
ありがとうございました。ありがとうございました。
宇都隆史、必ずやります、よろしくお願いします。


~~~~
ヒゲの隊長が、相棒として信頼する男。
それが航空自衛隊出身・宇都隆史参議院議員です。
宇都議員には、エールを兼ねて私から檄を贈ります。
「今度は、あなたが隊長を支える番だ」。

2013年7月17日水曜日

ヒゲの隊長・佐藤正久「自衛隊と国際貢献」

前回のエントリではヒゲの隊長・佐藤正久参議院議員の現在を、講演を通じてお伝えした訳ですが果たして参議院議員に転身される前はどうだったのか。

今から6年前、慶應大学の「日本論語研究会」での講演録を発見しました。
同会は自由民主党・政務調査会の田村重信調査役が主宰し、小泉進次郎・衆議院議員が「伝説のスピーチ」の呼び声高い講演をされた事でも知られています。
http://www.rongoken.jp/report/report201004.html




小泉進次郎議員だけじゃないですね。
番匠幸一郎・陸上幕僚副長や、イラク人道復興支援を陰ながら支えた陸上自衛隊・特殊作戦群の初代群長と務められた荒谷卓・明治神宮至誠館館長やら、防衛ジャーナリストの桜林美佐さん、軍事アナリストの小川和久さんまで講師に名を連ねていらっしゃる。
錚々たる会です。







その同門というか、ヒゲの隊長も講演されていたのは意外な驚きでした。
いわば、「小泉進次郎議員の先輩」な訳です。



たまたま、同会のホームページに当時の講演PDFが残されていました。
今回は、そうした「ヒゲの隊長の原点」を探るべく、当時の講演を追体験する形でテキストを転載させて頂きます。



第25回、平成19年3月17日 日本論語研究会
「自衛隊と国際貢献」
元陸上自衛隊イラク先遣隊長
「ヒゲの隊長」 ・参議院議員 佐藤正久



はじめに

 皆さん、こんにちは。
ただいまご紹介を頂きました「ヒゲの隊長」の佐藤です。本物です( 笑)。
皆さん、いかがでしょうか。よく「テレビと違う」と言われますが本物です( 笑)。
最近、痩せたものですから、同僚から「お前、イラク人に似てきたな」と言われます( 笑)。



 テレビというのは、全体を映すのには具合が悪いものです。どうしても一部だけを切り取って、それを全体として映す。その代わり、もの凄く影響が強いです。

 イラクでの人道復興支援についても多くの皆さんがテレビを見て知る。そしてイメージする。現場で動いた人間からすると、かなりの国民の皆さんが実際とは違ったイメージを抱いているような気がします。
 今日は、そんな現場の話をしたいと思います。


1.「郷に入っては、郷に従え」

 私が最初、先遣隊長としてサマーワに入りました。しばらくして、嫁さんに電話したら、
  「あんた何やってんの。あれだけ心配して送り出したのに、テレビで見たら、いつも楽しそうに食事ばかりしている」と( 笑)。

そんなことを言われました。でも現場はそんなに甘くはありません。
 サマーワに行く時に、当時の陸上幕僚長(先崎一・陸将)から部屋に呼ばれました。 「また怒られるのかな」と思いながら部屋に入りました。 「すぐに終わればいいな」と思って立ったままいましたら、 「佐藤。座れ」と言われました。

 そしてたった一言。
「佐藤。郷に入っては、郷に従え」

それだけでした。一言だけでした。

 それはどういう意味か。私は、その方とずっと一緒に仕事をしてきましたので分かりました。つまり、 「あとは佐藤に任せた、現場の風は現場でないとわからない。市ヶ谷ではわからない。しかし、現地にとけ込むことは忘れるな」ということだったんです。

 私が国際貢献の現場に立ったのは、過去に3回あります。
最初はカンボジア。これは外務省に出向している時に、ジーパンにポロシャツで情報活動をやった。
 2回目がゴラン高原です。そこで第一次のゴラン高原派遣輸送隊長として活動しました。
 そして3回目がイラク。それぞれ全く違います。

違うんですが、先ほどの陸上幕僚長の言葉は、今回がピッタリ合っていました。
 現地で約半年間、活動しました。その間、「郷に入っては、郷に従え」という言葉を胸に秘めながら仕事をしました。

 帰る直前、ある部族の長に呼ばれ、
「サトー、この地に残ってほしい。残ってサマーワの地を再建して欲しい」 と言われました。
そして、
「もしも残ってくれたら家もやる、土地もやる、嫁さんもやる」
と( 笑)。
「日本に嫁さんがいます」と言いましたら、 「サトー、そんなの問題ない」と言うんです。 「お前がイスラム教に改宗したら、四人までOKだ。日本に一人、サマーワに三人だ」 と言われました (笑)。


 それから日本よりイラクの方が挨拶は上手です。特にサマーワは、昔の日本が残っているような感じです。目と目が合えば、まず笑顔。知っている人なら近寄って行って握手をします。そしてホッペにキスをします。右、左、右とキスをする。
 昔の日本があったんです。



 日本に帰って銀座の街を歩いた時、本当に悲しくなりました。日本人は、まず顔が疲れています。そして、下を向いて早足で歩く。
 サマーワではあり得ません。私も何度もホッペにキスをされました。そして親しくなると唇にキスをする。おじさんに唇を奪われたことは何回もありました( 笑)。 それでも笑顔です。時には舌まで入ってきました( 笑)。 でも笑顔です。
 とにかく溶け込む気持ちがあれば何でもできるんです( 笑)。
 これが現場なんです。


2.「佐藤商会」開業

 今回、私たちは住民の要望を受けて仕事をしなければなりません。人道復興支援ですから。
 住民の要望を受けていない仕事をやっても評価されません。しかも仕事の場所は住民のど真ん中なんです。
 田舎に行けば、大勢の住民が近寄ってきます。だから住民との信頼関係がないと危ないんです。だから溶け込む気持ちが大切なんです。

 私たちは今回、人道復興支援をやる。日本政府からは三つの分野で仕事をするよう言われました。
 一つは「医療支援」です。
そして、汚い水をキレイにして配る「給水」。
もう一つは学校、道路などの「公共施設の修理」です。

 どの分野も治安さえ安定していれば、普通は民間企業がやる仕事です。ただ今回は治安が十分ではない。かつ生活インフラが不十分なため、自衛隊のような自己完結性を持った組織じゃないといけない。しかし、やっている仕事の中身は民間企業に近いんです。

 今までいろんな国際貢献をやってきました。
 カンボジアでは国連平和維持活動、その主任務は道路の補修。それはある意味、民間企業とは違う部分がある。やっていることは同じですが目的が違う。何のために補修するのか。それは他国の軍隊が通るためなんです。平和維持活動ですから、極端なことを言えば、住民の生活に直結していなくてもいいわけです。

 中国の工兵隊は穴しか埋めていません。その代わり早いです。
 それに比べ日本の工兵隊は遅い。丁寧なんですが、側溝まで掘らないと落ち着かないのが自衛隊の特性なんです( 笑)。

 今回は平和維持活動ではなく人道復興支援です。住民の生活に直結していないと意味がないんです。
 まず全体のマスタープランをつくる。一部から始めると 「おいおい、何で向こうの地域からやるんだ。俺たちのところもやれよ」 と言われます。そうなると、その地域が反自衛隊の温床になるんです。
 復旧と復興は違います。ここは多くの方が勘違いされています。
 今回のイラクもカンボジア、ゴラン高原のイメージで自衛隊の部隊を編成しました。つまり復旧をイメージしているんです。質は問わず、とにかく急いで元通りにする。これが復旧です。

 復興は、さらに高める。いいものにする。これが復興なんです。だから時間がかかる。
 「日本の戦後復旧」とは言いません。 「日本の戦後復興」です。だから中長期的な計画を持ってやらないといけない。

 イラクの人から見れば、私たちのやっていることは民間企業と同じなんです。しかも世界第二位の経済大国です。現地の人は勘違いしています。自衛隊とゼネコンを( 笑)。



 当たり前なんです。彼らは自衛隊として見ないです。とにかく 「世界第二位の経済大国である日本から私たちを助けに来てくれた」と。それだけなんです。区別ができない。私は「佐藤商会」の会長です(笑)。
「佐藤商会」という会社を初めてサマーワに出店するといった視点がないと失敗すると思ったんです。やっている場所は住民の真ん中で、やっていることは民間企業と同じなんです。


3.協力者を増やす

 私たちは先遣隊として初めて行きました。情報がありませんでした。
 なぜかと言うと、従来の平和維持活動と比べ、とにかく治安が悪い。奥( 克彦)大 使や井ノ上( 正盛)一書記官も亡くなりました。
 ですから事前に日本政府の役人も入れないんです。従来ですと、日本政府の役人が入って、その後で自衛隊が入る。それができない。
 だから先遣隊長が行って、現地を見て、調整をして、情報を取りなさいと。先遣隊が集めた情報によって本隊を派遣するかどうかを決めると。つまり情報を集めないと本隊の派遣につながらないんです。

 隊員は「怖い」と言います。住民の真ん中に行っても、誰が敵で誰が味方か分からない。全員が全員、自衛隊を好意的には思っていませんから。 「どうせお前らはアメリカから言われて来たんだろう」と思っている人もいます。

 向こうに行く時、隊員とその家族を交えた昼食会がありました。その時、ある隊員のお子さんが、彼の足元でジャレ付いていました。その脇では奥さんが泣いていました。



 当時は戦地に行くかの如く報道するメディアもありましたから、その奥さんは 「生きて帰って来ることができるんだろうか」と思っていたのでしょう。そういう光景を見る度に
 「何としても隊員を、無事に家族の元へ帰さないといけない」と思いました。
 そして市ヶ谷台から成田空港に皆さんに送られる中、出発しました。
特に女性の方の多くが泣いておられました。

 私の家族ですら、妻と娘は泣いていました。
そういう姿を見て、「絶対に帰って来よう」と誓いました。
恐らく男性の方は、私と同じ立場であれば、皆さんそう思うでしょう。

 しかし、仕事の場所は住民の真ん中です。情報がなければ動けません。最初から情報のネットワークがあれば動けます。それがない。
 まず地域の安全化を図るために協力者が必要です。彼らは、地元の人間で自衛隊に好意を持っている人、持っていない人が分かります。そういう協力者をいかに見付け、いかに増やすか。そういう人たちが多ければ多いほど安全が担保できるんです。
 敵対する人間に囲まれれば情報が入らない。そうなるとテロリストの犠牲になる。それが現実です。

 協力者を増やすことが大きなポイントなんです。そして住民の信頼を得る。これに勝る安全確保はないと思います。でも信頼を得るのは簡単なものではありません。人間関係もできていないのに信頼関係などできません。そこでいろんなことをやりました。
 1つ目は溶け込む努力。2つ目は住民の要望に応える。
3つ目は情報のネットワークの構築と情報発信。4つ目は私たちの組織文化を変える。

 一つずつお話します。


4.サマーワを愛し、イラクを愛する

 まず溶け込む努力ということです。
 もともとイラクの人は外国人が嫌いです。なぜかと言うと、あそこはメソポタミア文明の発祥の地なんです。チグリス川、ユーフラテス川という川があって、そこに肥沃な土地が広がっている。北にトルコ、東にペルシア、西にギリシャ、南にベルリン。いろんな人たちが、あの地で争いました。
 私たちは新参者です。まずは徹底的に安心感を与えないといけません。
 「私たちは皆さんの友人であり、与えることはあっても奪うことはない」と言いました。そして私が隊員に言ったのは、 「サマーワを愛し、イラク人を愛しなさい」ということです。安心して日本に帰るにはそうしないといけない。自分が持っている一番いいものを前面に出して現地の人の中に溶け込む。



 生半可な愛では、絶対に相手にばれます。本当に自分を愛しているかどうかは、目を見れば分かりますし、握手しただけでも分かる。

 私の好きな言葉は「信なくば立たず」を捩った「意なくば立たず」です。
まずは気持ちなんです。
気持ちがなければ何も始まらないんです。
 ところが日本人は、スーッと現地の人たちと同じ目線になれるんですね。これは日本人のDNAかもしれません。

 何より、現地の人たちの反応が違います。
 申し訳ないですが、欧米のNGOの方々は、口では宗教や文化を尊重すると言いますが、実際は、上からの目線で相手を見ます。ソファーにふんぞり返り、偉そうに指示をし、遅れてきても謝りもしない。



 気持ちがあれば時間の長短に関係なく信頼が生まれるんです。そこを徹底してやりました。
 私は隊員に対し「お前の仕事の仕方はイラクを愛していない」ときつく言うこともありました。


5.「鳥の目」、「虫の目」、「魚の目」

 2つ目に、いくら仕事をやっても、住民の要望に応えていなければ意味がない。
 当初、情報がないが故に、防衛庁・自衛隊の方針も、中身をカチッと決めず、比較的、緩やかにしていました。現場に合うように、ある程度、仕事の中身を変えてもいいという担保を石破( 茂)防衛庁長官からもらってきました。
  「仕事をくれ、仕事をくれ」 という人たちが多い中で、カンボジア方式で、学校や道路を直したら、彼ら現地の人たちの仕事を奪うことになる。自分たちがやっちゃいけない。できれば現地の人たちがやった方がいい。
 復興というのは、イラクの人たちの自立が目的です。教育支援型、あるいは管理施工型でやった方がいいんです。ですから「イラク人が主役、自衛隊と外務省は黒子」という方針を決めました。現場に合うようにしないといけないんです。
 大事なことは「鳥の目」、 「虫の目」、「魚の目」です。まずは「鳥の目」。全体像を見渡す。全体図を見てイメージアップをする。それを具体化して、実行可能なものにするのが「虫の目」です。 「現場に神あり、神は現場に宿る」という言葉がある。すべて現場にあります。私も現場を歩きました。
そして「魚の目」です。経済学者が言うのは、潮の流れの変化を読む目です。
 復興のデザインは間違いなく右肩上がり。同じではダメです。同じでは誰も評価をしない。そのためには、現地の住民の感覚と要望をできるだけ早め、早めにキャッチして先取りしてやっていく。そうしないと信頼は生まれません。
 そこで決めたのが先ほどの「イラク人が主役、自衛隊と外務省は黒子」という方針です。最初は抵抗がありました。イラク人を前面に出して、私たちは後ろにいる。でもいいんです。現地がよくなれば。
 今は結果を出すのが評価される時代です。防衛省も運用の時代と言われますが、その中身は私に言わせればスピードの結果の時代です。できるだけ早く結果をだす。自衛隊の運用も結果なんです。結果が出なければ意味がないんです。
 現地の人たちの一番の要望は電力でした。本当に電力が大切。暑くてもクーラーがない。テレビを見たくても見ることができない。夏場でも20時間停電します。
 それから農業です。人口の四分の三が農民です。あそこは塩害が凄いんです。土地が真っ白です。
「日本の技術で土地改良してほしい」と言われました。それから下水、ゴミ。 「何とかキレイにしてほしい」と言われました。でも私たちのやることは「医療支援」 、「給水」、 「公共施設の修理」の三つです。世界第二位の国の看板を背負っていますから、たくさんの要望が来るんです。
 ある部族からは「お前ら早く帰れ。日本の民間企業を連れて来い」と言われました。それが現場なんです。逐次、いい関係をつくるよう努力しましたが、最初からそうはいかないんです。


6.信頼を掴んで情報を得る

 3つ目の情報のネットワークの構築と情報発信。

 噂の世界では、私は3回殺されていました。一番のターゲットですから。目だっていましたからね。とにかく早く情報のネットワークを構築しないと私たちは危ないと思いました。
 どういう部族がいて、部族同士の関係はどうなっているのか。どういう政党があって、その政党同士の関係はどうなっているのか。

 一番、脂っこい情報をくれたのは、「アメリカは嫌い。イギリスも嫌い。でも日本は好き」という方でした。
 ある場所で情報交換もしました。それが大切なんです。そんな時、一番のポイントとなるのが食事なんです。昔、外務省にいた時も上司から「佐藤、外交はメシだ」と言われました。つまり食事は情報交換の場なんです。経済情報、安全情報。



 さらにそこで面白いことを言うと、もっとその輪が広がる。 「佐藤は面白い奴だ。うちにも来てもらおう」と。そうすると自然にネットワークができます。
 でも非常に大変です。イラクの食事。脂っこいんです。一番困ったのが紅茶。チャイと言いまして、コップの三分の一は砂糖なんです。それを並々と注いでくれる。かき混ぜても、かき混ぜても底に砂糖が溜まっている( 笑)。 甘いんです砂糖。私は佐藤ですが、シャレじゃありませんよ( 笑)。
 一ヵ所に行くと、少なくとも三杯は飲まなくてはいけません。しかも日本人が行くと、ご丁寧にペプシコーラとかセブンナップまで買って来てくれるんです。それも飲まなきゃいけない。溶け込む気持ちが大切ですから、多い時には紅茶を1日20杯、ペプシコーラを10本飲みました。
 しかも昼と夜は高カロリーの食事です。私が一番怖かったのは、サドル派の民兵よりも糖尿病でした。

 向こうのお年寄りから医療相談を受けましたが、そのほとんどが糖尿病です。当たり前です。あんなに甘いものを飲んでいるわけですから( 笑)。 お陰さまで私も境界型糖尿病と診断されました。こればかりは仕方ありません。職業病です。でもなぜ境界型糖尿病で治まったのか。理由は下痢です。
いつも下痢をしました。もともと不衛生ですから。食事でもご飯の上に羊の肉が乗っかっているんですが、ハエで黒くなっているんです。
 それから水が出てきます。いろんなものが浮いているんです。でも水は最高のおもてなしです。ですから飲みます。飲んで「おいしい」と言うと、おいしくないのを分かっていますから笑うんです。
 でもそうやって信頼が生まれます。
 しかも信頼を得るためには、空手形を切らないといけない。日本と違って、幹部が行くのに、 「持ち帰って検討します」では信頼されません。
 できるだけそこで空手形を切る。でも本当に空手形になっちゃいけませんから、空手形にならないように後で処理をします。

 そして情報のネットワークを構築したら、それを発信しなければいけません。
 そこで、私の部下で一番優秀な人間を、情報発信担当の幹部に任命しました。
 情報発信というのは、全員がやるんです。物を調達する人間も、復興支援の企画、設計をやる人間も、広報の人間も、イラクの人と触れ合う人間は全員、情報を発信する。そうであれば、できるだけ一つの方針の下で、計画的に、戦略的に発信した方がいい。だから頭のいい人間を任命したわけです。

 特に重点を置いたのは、部族長、政党指導者、宗教家といった有力者。彼らをできるだけ仲間に引き込み、いろんな情報をインプットする。私はそういう有力者との付き合いに時間を割きました。
 その中でも政党指導者と宗教者は特に力を入れた。政党というのは、サマーワの政党もバグダッドの政党もつながっています。手先ですから。
 狙い目は大統領、首相、有力閣僚です。なかなか彼らには会えません。でも、その政党の地域の有力者に情報をインプットすれば、彼らにも伝わるんです。
 大統領、首相、有力閣僚が「日本の自衛隊はよくやっている」と思えば、そのことが、さらに広まるし、安全も確保できるんです。
 それと宗教家。これが最も大切。中東地域は宗教の影響が大きい。いかに宗教家との関係を構築するか。
 サマーワはシーア派と呼ばれる人たちが多くいる地域です。シーア派で一番偉いのがシスターニさん。シスターニさんはナジャフという聖地にいます。私たちはナジャフには行けません。
 一番いいのは、日本政府のトップ、当時で言えば小泉(純一郎・内閣総理大臣)さんです。
小泉さんがナジャフに行って、シスターニさんと会談をする。笑顔で握手をする姿が報じられれば、これは隊員の安全にとっては最高の効果です。さらにシスターニさんから 「自衛隊はよくやっているんで、皆さん協力しましょう」という一言がでれば「鬼に金棒」です。

 でもそれは無理です。当時の石破長官も「行けなくてゴメン」の状況ですから。
 それならば、サマーワにいるシスターニさんの代理人との関係構築です。彼をこちらの側に引き寄せて、協力者になってもらう。
 結果として協力者になってくれました。そして彼からシスターニさんにアプローチをしてもらった。これが大きな効果を生んだんです。まさに情報発信です。


7.「組織体から機能体へ」 、 「調整型から朝令暮改対応型へ」

 4つ目は私たちの組織文化を変える。自己改革です。
 現地は日本じゃないんです。イラクなんです。結果を出すためには一部、自衛隊の文化を変えないといけない。特にこだわったのは「組織体から機能体へ」、 「調整型から朝令暮改対応型へ」 。
 自衛隊は団結を重視します。団体行動を基本とする組織体。
 私も中隊長、連隊長の時に、普通科部隊ですから500人、1,000人が一つの方向に動くような意識で訓練をさせた。
固まったら一つのことしかやらない。
少ない人間で多くのことをやって結果を出すためには機能体にならないといけない。
究極は一人ひとりが考えて行動する。
 京セラの稲盛和夫さんが言うような、アメーバ状態でいかないといけない。小さなグループで仕事をする機能体に変えるのが大切なんです。

 2つ目の「調整型から朝令暮改対応型へ」 。自衛隊は極めて調整型です。
 陸上自衛隊は特に八文字熟語で揶揄されます。「用意周到動脈硬化」と( 笑)。
これじゃダメなんです。現地では状況がコロコロ変わるんです。そういう時はリーダーの判断がすべてなんです。十名の長が朝に右と言って、昼になって左と言えば左なんです。
「話が違う」 、「聞いていない」なんて通用しない。柔軟に動かないといけない。

日本と違うんです。
 「ここはイラクだ、ここはイラクだ」と盛んに番匠( 幸一郎)第一次イラク復興支援群長も言いました。日本とは違うんです。



 少佐以上、三等陸佐以上は拳銃を持っています。向こうでは拳銃は意味を成しません。ライフル銃です。
 私の部下がイギリスの司令部の方に行きました。そこの規則は、ライフル銃を持たないと外に出ることができない。あちらは師団長、三ッ星の将軍ですら拳銃の他にライフル銃を持ちます。そういう発想は日本とは違います。そして一人一丁という発想も日本独特なんです。結果を出すためには一人2丁、3丁持ったっていいんです。そういう視点で目をこすらないといけなんです。何かあったら、自分が撃たないといけないという気持ちが常にあります。それが現場なんです。しかし、どうしても疲れてくると、そのことを忘れちゃうんです。

 ある時、警備の人間と一緒にいたら、犬が近付いて来ました。警備の隊員は犬の頭をなでようとし
ました。私は「やめろ」と大声を上げました。
 もし噛まれたら狂犬病になるかもしれない。日本ではなくイラクなんです。そこを考えていないといけないんです。
 これが現実です。


8.日本の歴史が後押しした

 信頼はなかなか生まれません。
 帰る前日、ある村で橋の開通式がありました。私が一番の主賓でした。私が部族と町の間に入り調整し、その橋を自衛隊がかけました。そこに看板がありました。アラビア語で「サトウブリッジ」とある( 笑)。
本当にビックリしました。



 帰る日、私たちは現地の友人たちに「さようなら」を言えませんでした。なぜかというと、私たちが、いつ、どういうルートで帰るかという情報が万一、テロリストに分かると迷惑をかけるんです。
 ですから日が上がる前の朝早くに出ました。日が昇って友人たちは現場に出ます。すると全部、新しい自衛官に変わっている。それを知って大泣きしたそうです。半日くらい仕事ができなかったそうです。 「ああ、ここまで信頼が築けたか」と思いました。
 当初の二ヵ月間、本当に厳しい状況でした。目の前が真っ暗になるような状況が何度もありました。番匠群長が本隊を連れてきた時、本当に嬉しかった。
 とても苦しいことが度々ありました。しかし、そんな時に私たちを後押しをしてくれたのが、日本の歴史と先輩が築いた基盤でした。
 1980年代前半までは、多くの日本企業がイラクにいたんです。サマーワの総合病院も日本企業がつくった。日本人の先輩の方々が、彼らといい関係を築いていたんです。
 現地の人たちの中には、わざわざ当時のお礼を言うために、私に会いに来た人もいました。本当に驚きました。
 先輩が築いてくれた信頼という基盤が残っていたんです。日本の先輩は本当に凄いと思いました。




先輩に感謝、感謝、感謝。

 それから日本の歴史にも助けられました。イラク人は日本の歴史をよく知っています。日本がアメリカと戦って負けたことや原爆を落とされたこと。だけど日本人全員で頑張って復興を成し遂げた。
 「日本人は凄いね」って言われます。日露戦争のこともそうです。あの小さな日本が、大きなロシアに勝った。そういうことを知っているんです。「いろんな意味で日本は凄い」と。そういうものに私たちは助けてもらいました。

 さらに、自分たちの努力というのも大切だと感じました。
 信頼と安全は自分たちの頭を使って、頭を使って、これ以上考えられないというくらい頭を使って自分たちでつくり上げるものなんです。アメリカ軍には頼れません。国連、もってのほかです( 笑)。
何でも自分たちでやらなきゃならないです。

 日本に帰って来てから、 「佐藤さん、決断する時、よく迷ったでしょ」と言われました。決断で迷うことはありませんでした。私が迷ったのは、決断の前に「理由ある決意」を持つことに迷いました。自分の部下を、自分の運とか勘に委ねるわけにはいきません。そのためには事前の研究がものすごく必要です。 「こういう時は、こうしよう」ということを考えて、 「理由ある決意」、いろんな引き出しを持っておく。後は決断。タイミングだけの話なんです。
すべては事前の研究なんです。



 そのように全員で頭を使って、苦労してやりました。苦労すればするほど日本が素晴らしく見えました。何だかんだ言ってもやはり日本はいい。これほど平和で安全な国はないと思いました。
 半年後に多くの隊員が成田空港に着きました。全員が「フッ」と一息つきました。 「いいな日本は」と。

 では、そんな日本をつくったのは誰か。すべて先輩なんですよ。私に言わせれば、古くは縄文時代から、ずっと日本の歴史、伝統、文化、自然環境を育んで来られた先輩なんです。
 そう感じさせたのが目の前にいたイラクの人たちでした。
 最初、一緒に活動したイラク人四十数名は大学を出ています。大学を出ても仕事がないんですよ。



政府が悪いから。そして彼らを雇いました。彼らは目の輝きが全然違います。 「教えてくれ、教えてくれ」と言ってきます。一生懸命なんです。



 金曜日、日本でいう日曜日に当たりますが、誰も休まない。 「働きたい」と皆さん言います。その中には、お金を貯めて、あの危ないバグダッドに戻って、大学院に通っている者もいます。 「いつか俺たちがサマーワを再建するんだ」という熱い思いを持った若者が目の前にいるんですよ。昔の日本の先輩の姿とダブりました。イラクの若者の姿を見て、そう思いました。
 私たちも次の世代に素晴らしい日本を残さなければならない。それは自衛隊を辞めた理由でもありますが、全員で頑張って、次の世代につなぐ。私たちの先輩たちが頑張って、頑張って、 「次の世代のために」 という気持ちを持って来られたのと同じように私たちも頑張らないといけないと、イラクで感じました。


9.おわりに

 私たちがイラクで頑張れた使命感の源は、支援を必要としているイラクの現実と日本国民の応援、この二つです。



 目の前に困っている人がたくさんいるんです。大切なのは何をやるか、やったか。結果がなければ国益に結び付かないんです。
 サマーワの街中はまだいいです。田舎の方に行くと本当に可哀相です。高校生、中学生の背格好をしていても、読み書きのできない子供がたくさんいるんです。一生懸命、ご両親と農作業をしている若者。もうガリガリの体ですよ。しかし笑顔は素晴らしいんです。目が輝いています。学校に行けば、屋根が落ちています。50度を超える炎天下の中、小さな子供たちが授業を受けています。





 ある隊員が折り紙を教えようとしました。でも手を動かす力がない。朝御飯も食べることができないんです。そういう姿を見ると隊員たちは、自分たちの子供とダブります。困っている人がいれば何とかしてあげたい。
 そして度々、日本から応援のメッセージが届きます。この二つがあれば頑張れます。
 世界には困っている人がたくさんいます。彼らの視点に立って、何かできないか、何か手を差しのべることができないか。ただそう思うだけでも十分です。そういう日本人が増えることを切に願っています。



 以上で私の話を終わります。ご清聴有難うございました。


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最後までお読み頂きありがとうございます。
例により、今回も転載や拡散は大歓迎です。

今でこそ参議院議員、防衛大臣政務官として大活躍されているヒゲの隊長ですが、政治家を志す前の原点はこういうところにあったのだなと改めて思います。
座右の銘の「意なくば立たず」も、ルーツはここなのでしょう。
今年のテーマが、安岡正篤師匠の「一燈照隅、萬燈照國」なのもうなずけます。

2013年7月13日土曜日

佐藤正久「四海波高し このままで良いのか?日本の防衛」


去る5月6日、近所で開催されたヒゲの隊長の講演録。
実に1時間の大演説だったのですが、私自身も何度か涙しました。
一人でも多くの方と共有したい、そう思い講演を書き起こしました。
これを読んで頂ければ、隊長の人となりがわかると思います。
投票前の方はご参考にどうぞ、転載も大歓迎です。


「四海波高し このままで良いのか?日本の防衛」
2013年5月6日 さいたま市民会館
参議院議員・佐藤正久(ヒゲの隊長)


はじめに ~「ヒゲの隊長」は無効~
皆さん、こんにちは。
ただいま紹介いただきました、さいたま市の北区、上尾駅の近くに住んでおります参議院議員の佐藤正久です。


連休の最終日の今日、まさに行楽日和の中、防衛について、このように多くの同志の方々といろいろ考える機会を持てることを本当にうれしく思います。

 6年前、皆さまのおかげで参議院議員に当選させていただいたのですけれども、6年経った今でも、佐藤正久よりは「ヒゲの隊長」のほうが通りがいい。
ただ、「ヒゲの隊長」は選挙では無効票なのです。それは非常に苦労しておりまして、佐藤までは出てきても、正久まで分かる人間はほとんどいない。

ある支援者の方からは「正久を覚えてもらうために、ヒゲの隊長ではなく、正に久々にいい男と自分で言え」という声もいただきました。さすがにこれは自分で言えませんから、その辺でも非常に苦労しております。

 初の当選をいただいてから、先輩議員に「おまえ、顔がだんだんサダム・フセインに似てきたな」と言われたり、6年経つと今度は「『青葉城恋歌』のさとう宗幸さんの若いころに似てきたな」とか、いろいろいじられるものだなと思いますけれども、それでもやはりいただいた思いを1つでも2つでも結果としないといけない。
 そういう思いで、現場と国政の場を行ったり来たりという形で、この6年間、汗を流してきたつもりです。

 今日は波が高いという防衛について、「四海波高し このままで良いのか?日本の防衛」という演題を頂きました。これから皆さんと一緒にいろいろ考えていきたいと思います。どうかよろしくお願いします。


1.一番大事なのは国民の意識

 最初に、防衛について一番大事なのは国民の意識だと私は思っています。よく言われる言葉に、国民の防衛意識を超える防衛力はつくれない。今この青いバッジ、拉致も国民の拉致意識を超える拉致政策はできない。国民の領土意識を超える領土政策はつくれないと言われています。
 なぜか? 政治家、地方議員も、首長さん、国会議員も、国民から選ばれた人間です。国民の意識が低ければ、当然その代表もそれなりの人間が選ばれる可能性が高いと言われています。
 だけれども、我々政治家が国防は不十分だということを国民のせいには絶対にしてはいけない。説明し、説明し、説明しきらないと、と言っています。
 でも、その説明のやりとりが非常に足らないと、私は思っています。だから、今、私も可能な範囲で、政治家との会合をキャンセルしてでも、この6年間、ミニ集会、こういう講演の場、意見交換の場に多く出たつもりです。
 例えば非核三原則があります。実際は非核五原則です。三原則は核兵器を持たず、つくらず、持ち込ませず。でも、五原則は核兵器を持たず、つくらず、持ち込ませず、考えもせず、議論もせず。そうでしょう。

 皆さん、多くの方々は考えて議論した結果、三原則になっていますか。初めから考えずに、議論もせずに三原則でしょう。実際は2.5原則かもしれないし、二原則かもしれない。本当に日本の領海も核搭載の潜水艦は通っていない。誰が断言できるかという部分もありです。
 いろいろな面で議論していないのです。要は防衛も安全保障も、初めから考えないようにしているのです。
憲法の前文にはまさにその精神が書いてあります。日本は悪い国だ。日本以外はみんないい国だから、日本国民は諸国民の公正と信義、周りの国を信頼して我々の生存を確保しようと決意した。なぜ周りの国、北朝鮮、中国に我々の生存は認めないのか。初めからそういう発想なのです。考えなくなっている。安全保障はアメリカへ頼めばいい。自分で考えない。これでは意識というのは広がらないのです。
 日本は島国です。海に囲まれているというのは、防衛上、ものすごいメリットです。これが陸続きだったら大変です。「日本が海に囲まれているというのは、兵隊さんが50万人いるのと同じだよ」と言う軍事評論家がいました。でも、だんだん海が陸地化しています。要は向こうの装備が、射程が伸びてきた、精度がよくなった。海の向こうからでもミサイルが届いてしまう。そういうふうになっています。状況はどんどん変わる。今までと同じような発想では守れません。
 本当に国を守ろうと思った皆さんは考えます。家をとっても、日本人はもともとすばらしい文化を持っていますから、鍵もかけないのは当たり前です。皆さんも隣の家は知らないけれども、自分の家は絶対泥棒に入られないと思っているでしょう。そういう人が多いのです。日本人は防犯意識がものすごく甘いんです。これも防犯意識を超える防犯政策もできないと言われるように、非常に低い。

 その典型例を今から言います。日本のトップ、総理大臣。有名な方を順に挙げます。



鳩山(由紀夫)元首相。有名です。普天間問題がありました。普天間を当てもなく県外だ、国外だと言った人です。
 普天間基地というのは、軍事基地です。ヘリコプター部隊がいます。海兵隊のヘリコプター部隊が飛んでいくときは、運ぶ人と運ぶ物と、位置確認をして、それを積んでいかないと意味がないでしょう。空身で行っても何の意味もありません。海兵隊は24時間365日、約2,300名が沖縄近辺で待機していて、何かあったら、朝鮮半島、台湾のほうに行く。沖縄は台湾、あるいは北朝鮮から、ちょうどいい距離にあります。
地図を見てください。これが沖縄です。沖縄から台湾海峡、朝鮮半島に近すぎず、遠すぎず。近くにいたら、すぐ自分の来たのがばれてしまいます。そういう場所にいます。ヘリコプターの一部は24時間365日待機しています。
 その基地を2,300キロ離れたグアムに持っていくということは、皆さんがこの埼玉浦和に住んでいて、駐車場の車を福岡に置くのと一緒です。すぐ動けないでしょう。
こんなばかみたいな議論をまじめに国会でやったのです。周りの国はみんなびっくりしていました。


 次に有名な菅(直人)元首相。




有名ですよね。当時の石破(茂)政調会長から「早く陸海空自衛隊のトップの方と面談してください」と国会で要望されて「分かりました」と面談したのですが、その中で何と言ったか。
「いやあ、よくよく予習をしてみたら、自分が自衛隊の最高指揮官というのが分かりました」。
こんなの、アメリカで言ったら即刻クビでしょう。でも、それが我々の総理大臣なのです。総理大臣は与党も野党も関係ないのです。


 次に有名な野田(佳彦)前首相。彼は陸上自衛官のせがれです。
お父さまは定年まで自衛隊を勤め上げた方です。




 彼が一番最初に任命した防衛大臣は一川(保夫・参議院議員)さんでした。
農業の専門家で、安全保障はあまりやったことがない。
だから、着任のときに「私は安全保障の素人です。
素人がやるのが本当の意味での文民統制です」と言って更迭になりました。

(文民統制?一川保夫・防衛大臣)


 野田前総理が次に任命したのは、今度は田中真紀子(元・文部科学大臣)さんの旦那さんの田中直紀(参議院議員)さんです。
素人からど素人に変わりました。

(田中「もしもし、もしもし!」直紀防衛大臣)


 すごいのですよ。去年の4月に、北朝鮮からミサイルが発射されるという話がありました。みんな態勢を取っていました。展開をします。委員会で、いろいろな方が質問しました。質問しようとしたら、あれ? 答弁席にいないのです。民主党の予算委員長もびっくりして、委員会はストップ。
みんなで探したら、食堂でコーヒーを飲んでいました。
注意をされたら
「すみません。二度とコーヒーは飲みません」
そういう問題じゃないのです。防衛大臣なのですから。
 予算委員会はテレビが入るときと、入らないときがあるのです。入らないときが圧倒的に多い。本当に入らなくてよかったなと思っています。
あのとき、北朝鮮の東倉里(トンチャンリ)という発射場所からフィリピンの東沖のほうに落とすと発表したのです。発射場所と落下地点が分かれば、それを結べばどこの上を飛ぶかも分かりますよね。日本のある島の上を飛ぶことが分かった。それは沖縄県の多良間島の上を通過する。




よせばいいのに、田中大臣は自衛隊の展開状況を発表したのです。多良間島に陸上自衛官4人、それから、約150キロ西の石垣島にPAC3というミサイル付きで約600人。でも、そのミサイルは射程が二十数キロですから、150キロ離れた多良間島には届かない。多良間島は110キロ東の、今度は宮古島、これをPAC3というミサイル付きで約350名。

 何か変でしょう。真下に4人。離れたところにいっぱい置いているのです。でも、発表したから、説明責任があります。
「大臣、何で真下の多良間島は4人なんですか」と聞いたら
「人口が少ないからです」と言ったのです。
「えー!」と。民主党の委員長もびっくりして、委員会はストップです。
委員長から「大臣、落ち着いて、冷静に答えてください」
「すみません、間違えました。多良間島の自衛隊4人を5人にします」
そういう問題じゃない。午前中の審議はストップです。これは本当の話です。
 これでは守れないのです。これは、受けるほうも受けるほうだけれども、任命するほうも任命するほうです。そうでしょう。野田さんは国防を軽視している。外務大臣とか財務大臣はそれなりにつけたつもりだった。でも、何で、よりによって防衛大臣が田中さんなのか。ほかにいるだろうと民主党の人も言っていました。要は野田さんの頭の中に、自衛官が何とかしっかりやれば何とか持つのではないかという甘えがあったのです。でも、それはみんな国民意識の反映なのです。ずっと考えもせず、議論もせず来たのです。


2.領土問題と、リーダーに求められる覚悟

 領土問題もそうです。2年前、日本青年会議所、JCが日本の高校生400名に「北方領土、尖閣、竹島、ちゃんと分かりますか」とアンケートをとりました。正解は400名中たった7名です。2年前の日本です。「何で」と聞いたら「だって、学校で習っていない」。つまり教育の話なのです。
 そのとおりなのです。私も習っていません。私の社会科の先生は完璧に「レフトスタンド」の人でした。だから、縄文土器とか弥生土器はめちゃくちゃ詳しく教えるのです。小学生でも明治維新までいかないのです。昭和史を教えたくないのか、教えられないのか。

だから、領土問題も、自衛隊も、先ほど言った慰安婦のことも、昭和史を習っていなかったら、分からないでしょう。だから、いくら教科書をいい教科書に変えるだけではだめなのです。ここは本当に政治も、地方議員も連携して、しっかり先生が教えるようにしてもらわないといけない。
 
 教育指導要領もそういう部分で、やはりしっかり書かないと。指導要領にも、昔は昭和史のことを詳しく書いているのです。だから、政治の責任です。
 近現代史が分からなかったら、周辺国と対峙するのは難しいです。
 4年前に、こういう話がありました。国会議員の中で尖閣について話しをしていましたら、私の隣のある国会議員が何かずれているのです。「先生、尖閣諸島、何県にあるか分かって、ちゃんと喋ってますか」と聞きました。「佐藤さん、福岡県でしょう」「違います。あれは沖縄ですよ」「あ、ごめん。対馬と勘違いしていた」「先生、対馬は長崎県ですけど」。本当の話です。国会議員です。こんなものなのです。

 2年半前、尖閣の沖で、海上保安庁の巡視船が中国の漁船にぶつけられたでしょう。皆さんはビデオをごらんになりましたか。あんなビデオは初めから見せればいいでしょう。見せなかったのです。あのとき、中国が日本に謝罪と賠償を求めたから、一色(正春・元海上保安官)さんが耐えられなくなって出してしまった。そもそもビデオというのは隠せば隠すほど見たくなるものなのですから、あんなのは見せればいいのです。



 あのときに乗組員を帰し、船を返して、船長を帰した。そういうことをしてはだめ、ちゃんとやってください。尖閣諸島は石垣に属しているのです。石垣の中山(義隆)市長や市議会議員の方がみんなで陳情に来られました。私のところにも来ました。
中山市長は、当時与党の民主党の田中真紀子さんのところにも行ったのです。「いや、中山市長、わざわざ島根県から、ご苦労さま」と言われたのです。みんな嘆いていました。竹島と尖閣を勘違いしているのです。

 田中真紀子さんは自民党時代にどこかの大臣をやっていますよね。外務大臣です。外務大臣が領土、竹島と尖閣を分からなくて解決できますか。我々政治も反省しないといけない。でも、やはり国民という部分も、もっともっと教えて、国民の意識を上げる、これも政治の仕事なのです。政治というのは、国会議員だけではなくて、地方議員の方、みんなでこれをやらないと、本当にこの国難、当たり前のことが当たり前ではなくなっているこの時代に、これが保てなくなってしまう。私はそういう危機感をすごく持っています。

 拉致もそうです。防衛だってそうです。もう考えないのですから。防災もそうです。先ほど堤防の話がありました。考えなくなっています。
 私はイラクへ行きました。隊長でした。とりあえず行ってこい。ある人は史上最大のいい加減な作戦と言っています。私ではないです、ある人が言ったのです。


 なぜか? 当時、我々は先遣隊で行きました。先遣隊の派遣です。本隊の派遣は決まっていませんでした。本隊は先遣隊が行って、先遣隊が上げてきた情報によって、出すか、出さないか判断する。そんなばかな話はないでしょう。
 では、先遣隊って何なの? とりあえず行け。奥(克彦)大使、井ノ上(正盛)一等書記官が亡くなったものだから、ほとんど調査ができていない。だから、とりあえず先遣隊が飛び込めという話です。

 そのとき、一番何を考えたか。みんなリーダーの背中を見ています。不安だから、みんな見るのです。リーダーの背中、リーダーの覚悟をみんな見ています。何としても情報を上げると同時に隊員を守らないと。もう考えます。考えて、考えて、考えて……これ以上、考えられないほど考える。みんなで考えました。命が亡くなったら大変です。もうほとんど情報がない中を行く。だって、みんな同じ顔に見えるのですから。あれほど訓練した自衛隊も怖い。

 みんな同じ、顔を見る。誰が敵か、誰が見方か分からないのです。テロとかゲリラは、皆さんのような一般市民が一瞬にして変わるのです。初めから軍服を着て、鉄砲を担いでいる人間は誰もいません。米軍が、子どもが来る。「おっちゃん、どこ行くの?」「どこどこへ行くんだよ」と言ったら終わりです。行った先で、女性が出てきて、おなかに爆弾を巻いて、ダーン! そこで敬礼なんかしたら終わりです。敬礼をしたら、誰が上官か分かるでしょう。
皆さんがスナイパー、狙撃手だったら誰を狙いますか。下端を狙いますか。上を狙いますか。上官です。それで、スナイパーで結構やられています。700メートル先から顔と首をやります。だから、いろいろなことを考えて備えないといけない。そこまで考えないといけないのです。本当にそのくらいの覚悟があれば、みんなそれなりに背中を見ています、何をやらないといけないと、考えて考えて考えて考えて考えて考えて考えて考えて考えて考えて、もうこれ以上ないというところまで考えて深掘りします。


3.守る覚悟

 そういう面で一番の軸、覚悟という部分は、やはりどうしても、自分の国は自分で守り、自分たちの地域、ふるさとは、みんなで頭を使い、守り、幸せにする、自分の家族を守り、本当に幸せにするという当たり前の軸の憲法に変えて、その精神を、その具体策を各法律、政令、政策に落とし込まないといけない。その根本の軸が憲法に書いていないのです。だから、日本は悪い国だ。日本以外はみんないい国だから、周りの国にお願いしましょう、アメリカへお願いしましょうという発想があるから、国連憲章に基づいた自衛権も書いていない。自衛権も書いていないから、当然、自衛隊も書いていない。
 憲法10条から40条を見ると、国民の権利、義務が書いてあります。国民の権利、15書いてあります。国民の義務はたった3つです。バランスが悪くないですか。義務が3つで権利が15です。自由は6カ所書いてあります。責任はたった1カ所です。これはバランスが悪い。

憲法というのは、英語で”Constitution”といいます。構造、国の構造、国の柄です。国の柄がこんな権利と自由が前面に出ている。おかしいでしょう。我々のもともと持っている価値観というのは義務なき権利はない、責任なき自由はない、そういう主義でした。違いますか。

 権利とか自由が前面に出すぎて、義務と責任、自分の国は自分で守る、自分の地域、家族、この当たり前の軸がなくなってしまっている。みんな自分の責任を放棄するようなことになってしまう。だから、私は、価値観をだめにするような、そういう政策は本当に大反対です。外国人への地方参政権も当然反対です。子ども手当ても大反対です。なぜかというと、お金持ちも、そうでもない人もみんなにばらまく。我々の価値観からいって、これはやはりおかしいです。頑張った人が頑張った分が報われる。それでもだめな人に、必要な人にあげる。これは分かります。初めから、それをばらまく。これは日本の自分の義務と責任をおかしくしてしまう。

 4年前、福岡で、ある中学3年生の男の子と、子ども手当てについて話したことがあります。「子ども手当てをどう思う?」「佐藤さん、僕、反対だ!」。立派だなと思いました。「何で反対なの」と聞いたら「だって、佐藤さん、あの子ども手当ては、お父さん、お母さんに行って、僕に来ない。赤字国債を発行して。付け払いでしょう。将来、みんな僕に来るんでしょ」。よく分かっています。「ということは、この子ども手当ては財政的な児童虐待だ!」「君、政治家になったほうがいい」と言いました。

 でも、冷静に考えると、自分に来ないから反対しているだけなのです。今から、子どもは自分さえよければいい、今さえよければいい。俺、俺、物、物、金、金になったら、最後はどうなってしまいますか。もう無理です。そういう当たり前の基本をいろいろな面で教え込まないといけない。義務と責任は権利と自由と一緒にあるのです。

 私は最後の自衛隊の連隊長を京都でさせていただきました。当時からずっと、今でもお世話になっているのは裏千家の、お茶の大僧正、90歳の千玄室さんです。海軍特攻隊の生き残りです。彼が言われているのは、昔の日本人は「~の」の文化だった。今の日本人は「~と」の文化になった。昔は日本国の県民であり、埼玉県の県民だった。今は日本国と国民、埼玉県と県民。対立関係なのです。昔は「~の」だったから、帰属意識があって、自分は国や県のために何をやろうという発想がまだあった。ところが、今は逆で、「~と」だから対立関係です。国や県は俺に何をやってくれるのだ、こう最初に来てしまう。これでは守るべきものを守れない。

 仮に、政治家とか行政の方、自衛隊、警察、消防、海上保安庁が、権利とか自由を前面に出して、義務と責任をへこませたら、どうなってしまいますか。終わりでしょう。


4.被災地で触れた、日本人の矜持

 震災ひとつとってもそうです。宮城県に多賀城市があります。多賀城駐屯地。両方とも大きな被害が出ました。波をかぶりました。多賀城駐屯の隊員も1名命を落としました。駐屯地の隊員900名が救った命は4,775名。自衛隊、警察、消防、海上保安庁全部で救った命が2万7,000名です。つまり、たった900名が全体の5分の1弱の命を救いました。

でも、彼らは自分の家に帰って、家が大丈夫か、奥さん、子どもは大丈夫かと確認できたのは、震災が起きてから5日目以降です。最初の3日間、人命救助に大事な72時間、生存率が下がる72時間は国友連隊長の命令で、家族よりも被災者優先。携帯電話をかけてもつながらないという中で、結果を出していただきました。


  5日目以降に交代で家に帰って、家を見たら、家がなかった隊員もいます。身内が亡くなった隊員もいます。それは後で分かること。最初の3日間は、俺たちしかいない。今、頑張んないで、いつ頑張るのだ。まさに被災地のど真ん中の部隊の意地と誇り、義務と責任です。俺たちしかいない。覚悟があれば、義務と責任が深掘りできるのです。


 宮城県の南三陸町の遠藤さんという女性職員。婚約もされていました。最後まで無線を握りしめて避難を呼びかけていた。自己犠牲です。1人でも多くの人に助かってほしい。でも、もう自分はもうだめだ。分かっていてもやる。この覚悟です。



5.何が、誰が問題をここまでさせたのか

 領土問題がここまでぐちゃぐちゃになったのは、鳩山さん、野田さん以上に菅直人・元首相に責任があると私は思っています。


 先ほど言いましたように、乗組員を帰し、船を返して、そして、最後は船長を帰しました。そのときに彼が言った言葉は周りの国もみんなびっくりしました。彼は何と言ったか。「俺は知らない」「俺が決めたんじゃない」「あれは那覇の地方警察が決めたんだ」。また責任逃れです。

福島の原発も同じです。「俺は悪くない」「俺は悪くない」。主権や領土に係る事項について、国のリーダーが「俺は知らない」。周りの国はびっくりしました。日本はいつからこういう国になってしまったの。彼らが持っている日本のリーダーのイメージと全く違うでしょ。本当、第二次世界大戦のあの先人たち、英霊たちの思いと全く違う。

「俺は知らない」。
あれからです、周りの国、日本をずっと見ていました。

帰したら、今度は仙谷官房長官が何と言ったか。
「やっとうまくいく」。





 ところが、向こうは何と言ったか。全く逆でした。
 主権というのは、お互い、ぶつかったら平行線がほとんどです。自分が悪くもないのに頭を下げたら、向こうは出てくる。
当たり前でしょう。帰してしまったものだから、自分で船に穴を開けて、写真を見せて「ぶつけてきたのは日本だ。悪いのは日本だから、日本に謝罪と賠償を求める」と言ってきました。
フジタの社員を人質にとり、日本へ、レアアースを含めて、いろいろなものを、経済制裁を始めました。さらに高いボールを投げてきました。
「いや、想定外だ」。こんなことは想定外でも何でもない。





  ロシアの大統領がその右往左往を見ていて、それから1カ月半後の11月に国後島に上陸しました。チャンスですから。当たり前です。ロシアの閣僚級がどんどん北方領土に上陸をしました。
その後、韓国の閣僚がどんどん竹島に上陸しました。見過ごせない。だから我々は、新藤(義孝)先生、稲田(朋美)先生、そして佐藤は鬱陵島に向かおうとしたのです。


 韓国は、しまいには大統領まで上陸。中国の船はどんどん来る。日本のリーダーの覚悟を見ているのです。


6.リーダーは、政治は「結果」が全て

 全く逆だったのは、イギリスのサッチャー首相です。フォークランド諸島とイギリス本土はどのくらい離れているか分かりますか。1万3,000キロも離れているのです。
イギリス国内でいろいろな意見があった中で、サッチャー首相は決断しました。
閣議でずっと見渡して、机をバンとたたいて

「この中に男はいないのか!
領土というのは人命を賭しても絶対に守り抜かないといけない。
なぜならば、領土は国家そのものだ。
領土なくして、国民の生命も財産も担保たり得ない。
行け!」。

見事でしょう。これがリーダーです。そして、結果を出した。その覚悟が今、我々に求められています。

 6年前の参議院選挙のときの総理大臣は安倍(晋三)さんでした。今年も同じく安倍総理の下で闘います。でも、6年前の安倍総理と今の安倍総理は違うなと思います。何が違うか。肚(はら)、そして胆力。1回挫折を経験して這い上がった男はやはり違うなと、近くにいて感じます。やはり失うものはありません。ぶれない強さがあります。今、とりあえず結果を出せ。結果を出して、自分の責任を含めて、自民党が、政治が失った信頼を取り戻せ。結果だ!
 私も自衛官時代、上司から「結果を出せ。結果を出すために、まず汗を出せ。汗が出ない人間は知恵を出せ。汗も知恵も出ない人間は辞表を出せ」とよく言われました。でも、そのぐらいの覚悟が今、我々に大事なのです。政権に戻ることが自民党の目的であっては絶対にいけません。そうでしょう、皆さん。

 政権に戻って、いかに日本を取り戻すか。それだけでは不十分です。日本を強く、豊かにして、すばらしい伝統、文化、価値観を持った日本を、世界のど真ん中で花を咲かせる、そのくらいの覚悟が必要なのです。

 そのために、まずは取り戻す。そこで止まってはだめなのです。さらに、我々は日本国はすばらしい伝統文化を持っている。それは価値観になっています。それをやはり多くの国に広めるくらいの覚悟がなければ無理なのです。
 特にそういうのは東北の復興、景気、経済、危機管理。景気、経済、最初のころはいろいろ言われました。金融緩和、ちょっとやり過ぎだ。日本銀行を脅していいのかと言われました。でも、総理はぶれませんでした。そのとおり、日銀総裁を白(=白川方明・第30代総裁)から黒(=黒田東彦・第31第総裁)に変えました。
 しっかり転換なさったでしょう。

 危機管理もそうです。1月30日に、中国の軍艦が海上自衛隊の防衛艦にレーダーを照射しました。射撃用のレーダーです。それを2月5日、1週間かけて証拠を固めてから発表しました。「発表しろ」と命じたのは防衛大臣ではなくて安倍総理です。「これはいけないことだ。悪いことだから、しっかりと証拠を固めて発表しなさい」。2月5日に発表しました。

 びっくりしたのは中国です。まさか発表すると思わなかった。前の政権とは違う。だから、軍部のほうからは何も外務省に連絡はない。テレビカメラの前でも外務省の報道官は右往左往。何も聞いていないから、記者から「外務省は何も知らなくていいのですか」と質問をされて「そう取られても結構です」。


苦しい。ところが、2日後「あれは日本が間違えた。我々のレーダーというのは、射撃管制用のレーダーではなくて、監視用の捜索レーダーだ」と、うそをつきました。捜索用のレーザーはぐるぐる回るでしょう。射撃用の管制レーダーはロックをするから、ずっと当てているのです。だから、捜索用のレーダーを見たら一目瞭然です。何秒かに1回しかこちらに来ません。こんなはずはない。

 安倍総理はさすがです。行為ではなくて「謝罪を求める」と高いボールを投げました。そうしたら、中国は苦しくなって「いやいや、そもそもあの日本発表はねつ造だ」。もう三転四転。こんな中国は見たことがない。こういうふうに、ぶれない強さがあります。

結果を出していくということが、本当に大事だと思っています。




 そういう意味で、我々は今、与党になって、まさにこれからが正念場だと思います。いろいろなことがあるでしょう。でも、それをいかに我々が一致団結して覚悟を持ってやっていくか。それが今、求められています。
 そういう面では、この憲法96条を通じて各章について議論をしていく。当然、9条が一番の焦点になるでしょうけれども、どんどん議論していく。
 でも、皆さん勘違いしないでください。憲法を変えたから全部よくなる。これはありません。憲法はあくまでも我々の基本、国柄を決める。さらに我々の思いを伝えるためには法律をしっかりつくり、政令、政策、制度まで落とし込まないと。それまで我々の闘いは終わらないのです。そこまでやるのは同志の皆さんと我々の思いです。


7.いま、そこにある危機

 では、これから若干各論に入ります。今日は時間の関係でミサイル、原発、尖閣の3つに絞って話します。

 原子力発電所

 北朝鮮から韓国に脱北した元殊部隊の方が日本に来て、1週間歩きました。もしも攻撃するなら、どこを攻撃すると聞いて言ったものの1つ。全部は言えませんけれども、ある1カ所が大手町の地下鉄を狙う。大手町は乗り換えがいっぱいあるので、すごく便利なのです。便利ということは、逆に弱いのです。あれだけ人が乗り降りするのに対して、あの駅員の数は少なすぎる。そういう発想は、今の日本にはないでしょう。

 これから防衛計画大綱をやりますけれども、北朝鮮の脅威を意識した場合、ミサイルと特殊部隊は絶対に考えないといけません。今、日本で狙われて一番弱い場所はどこか? 今一番弱いところはどこだと思いますか。



(会場から「原発」の声)
そうです。残念ながら原発です。とりわけ福島第一原発。私の地元です。これが一番弱いのです。ただ、皆さん方は原発に行けるのですよ。今20キロぐらい出ていきなさいと言いました。でも、警察が20キロ全部いるか? いないです。主要な経路にしかいません。あとは柵を置いている。どこからでも入っていけます。車がいっぱい転がっています。
ある技術を持っていたら、車は簡単に動かせます。だから、誰でもすぐそばまで行けます。

 1年間放ってあって、周りは草ぼうぼうです。海のそばは日中は海から風が吹く、夜は山側から山風が来る。風が強いときに山のほうから火をつけたら、大規模火災があってもおかしくない。だから、草を刈れと言います。けれど、そういう発想がない。
 しかも、向こうの現場責任者に「今、何が一番怖いですか」と聞いたら「冷却水が回らなくなることです」と。

 では、回らなくするには、どうすればいいか。それは、取水口を止めるか、電源を止めるか、その水を回すポンプを止めるか、3つありました。どこかをやればいい。そんなのはちょっと知恵があれば誰でもできます。詳しくは言えませんけれども、ネズミが断線を招いた事からも分かるように、ポンプなんかものすごくいい加減な状態です。電源だって、2グループで電源車をやれ。簡単にやれます。ポンプをやれ。簡単にやれます。1号機から3号機のポンプは一遍にダウンできます。

 鉄塔があります。鉄塔は皆さんでも倒せます。鉄塔はボルトを外したら取れるのです。当たり前です。香川県で97~98年にありました。鉄塔がいたずらで倒されました。
 考えたらいくらでもあります。そういう現場に対しては、警察だけではなく、自衛隊が出る番なんです。だって、もうみんなばれてしまったのですから。水が1日回らなかったら爆発すると分かってしまったのです。

 前の東電の清水(正孝)社長に言いに行きました。
「しゃべりすぎです。何で、あんなに原子炉の中の構造をべらべらしゃべるんですか」
「それは官邸から発表しろと言われている。情報開示だ」と。
ばかじゃないか。一番喜んだのはテロリストです。あんな原発の情報なんか入りません。構造が全部ばれてしまった。普通、あり得ません。

 だから、私は真剣に、今回、自衛隊の出番だと考えています。
でも、これは自衛隊と警察はなかなか入れないのです。警備は警察の仕事と、縄張りがものすごい。でも、現場の警察官で自衛隊に来てほしいと思っている人はいっぱいいるのです。でも、上のほうがものすごい縄張り意識があってだめなのです。

 9.11の後、そういう警護指導をいろいろ議論しました。当時、防衛庁は力がないときで、テロに対して、自衛隊が警備できるのは自衛隊施設と米軍施設の中だけ。原発は警察。あんなちょっとした機関銃だけでは無理です。

 ミサイル

 もう1つはミサイル防衛です。北朝鮮のミサイル、やはり半端じゃないです。どんどんレベルが上がっています。昔は、この本州を通過して太平洋に落としていました。今はフィリピンのほう、南のほうに向いています。昔は、何で東だったか? 地球は自転します。自転するので、東のほうに撃ったほうが衛星を軌道に乗せやすいのです。南のほうに向けると非常に難しい。だけど、最近は観測衛星の性能も上がり、だんだん精度が上がってきている。

 この前の12月、北朝鮮はものの見事に1段目、2段目をここに落として、あるものを軌道に乗せました。ものすごい技術です。ちゃんと指定した海域に1段目、2段目を落としていく。何でフィリピン沖にしたか? これはグアムを意識しているのです。ここに落とすということは、いつでもグアムまで行けるよという意思表示です。実際に射程は1万キロまで届くという能力まで、もう開発が進みました。半端じゃない、彼らの覚悟です。


 核ミサイルを持てば、絶対アメリカに攻撃されないと分かっているのです。逆に核ミサイルを持っていなかった国がアメリカに攻撃されています。だから、みんな必死になって、国民を犠牲にしても核とミサイルは何としてもやる。これが北朝鮮です。

 中国は絶対に北朝鮮を見捨てないと、北朝鮮は分かっていますから、そういう上でやっています。だから、朝鮮戦争のときも、ソ連がギブアップして、その後、中国が入ってきました。中国にとっては北朝鮮はものすごく大事な場所なのです。

北朝鮮の北部までアメリカ軍が来たら、首都の北京までたった700キロしかない。700キロ先に米軍が来る。中国にとっては首都がいつも脅かされますから、これは絶対に耐えられません。だから、絶対、北朝鮮は中国は見捨てないと分かっています。それで、だだをこねている。
今、アメリカが意識しているのは中国です。だって、あれだけお金をかけて空母をこちらに展開させる、あるいはステルスの戦闘機や爆撃機を、わざわざここに持ってくる。こんなのは北朝鮮にまだやる気がありません。みんな中国です。中国、分かっているな。ちゃんと北朝鮮を抑えろよ。この意思表示です。そういうことをいろいろやっているのです。

 そういう中でも、ミサイルは彼らは間違いなく開発しようとしています。だから、真剣に、我々はミサイル防衛はもっとやらないといけないと思っています。今回の防衛計画大綱(中期)でも、私は、原発の問題とミサイル防衛というのはもっと真剣にやらないと守れない。百発百中というのは絶対にありません。百発百中はない。しかも、いろいろなものがあっても、向こうが何発も撃ってきたら、それは弾が何発もそこに行かなければ100%はない。だから、もしも落ちたときの対応はあまり考えていないのです。

 形だけ紙の上ではさいたま市の国民保護計画をやっていますけれども、ミサイルが落ちたときの訓練はなっていません。実際に、ミサイルが落ちたときは、一番最初には、自衛隊では大宮にあるような化学部隊が出動します。なぜか? 弾頭が何か分からない。通常弾頭なのか、核弾頭なのか、あるいは化学弾頭なのか、生物弾頭なのか。

だから、ああいう諜報網というのは空気マスクを背負って行って、それを特定しないといけない。だから、絶対、皆さん、風下のほうに行ってはだめです。何か落ちたときは風上です。放射能と一緒です。そういう落ちた場合の訓練はまともにやっていないのです。福島のように風下に逃げるのは絶対にだめです。そういうことをまともにやらないといけない。ここは国民の意識です。だから、自分の上には、絶対落ちないとみんな思っているのです。保証はない。そういう部分もあります。

尖閣


 もう1つの焦点は尖閣です。尖閣については真剣にやらないといけません。日本の漁師さんの数は約20万人です。中国の漁師は5年前で800万人いました。漁師だけで埼玉県民より多いのです。今はもう1,000万超えているといいます。
なぜか?どんどん裕福になって、内陸のほうまで魚を食べているのです。13億の人間が魚を食べる。半端じゃないでしょう。
 これも「覚悟」なんです。1億2,000万のリーダーと13億のリーダー、この覚悟ははんぱじゃないです。皆さん、13億のリーダーになったことを考えてください。13億人の胃袋を満足させる。これは半端じゃないです。胃袋を満足させないときに、だいたい暴動が起きて、政権が倒されるのです。だから、魚、どんどん獲るに決まっています。国際ルール、そんなの関係ない。どんどん取ります。だから、ソマリア沖の海賊が増えた1つの原因に中国のトロール漁船があります。全部取ってしまう。半端じゃないと言われています。

 アフリカのエチオピアの首都アディス・アベバへ行くと、アフリカ連合の大きな建物が建っています。国連の建物より立派です。それは中国が全部ただで建てたのです。アフリカの主要な国の国防省とか外務省はみんな中国がただで。その代わり農業資源、いろいろな資源を全部独り占め。半端じゃないです。尖閣もそういう延長線できます。第二次世界大戦が終わってから今までずっと西と北には行けたのです。それがチベットであり、ウイグルあり、内蒙古、これは陸続きなのです。ところが、海軍力がついてきたから、今度は東と南です。そこにどんどん来ているのです。そういう状況だったのです。


8.四方、波高し

 この波はどんどん高くなる。だから、我々は、これからは想定外ということを言わずに、どんどん準備しないといけないのです。
 今、尖閣諸島、魚釣島で何かあったら、那覇から戦闘機でスクランブルで飛んでいきます。何キロ離れていると思いますか。420キロ離れています。この浦和から直線距離で神戸ぐらいです。それが一番近い航空自衛隊の拠点です。行くまでに30分弱かかります。
だから、仮定の話ですけれども、そこで本当に何かあったとき、飛行機がもう2機編隊で、一度グループなど来たら大変です。一度、グループに対処しないといけない。みんな那覇から行く。途中で、もう十数機がなくなってしまう。そのくらい飛びます。
 では、尖閣に一番近い海上自衛隊の基地はどこか分かりますか。佐世保です。佐世保から1,100キロあります。ここから種子島までです。そうだと、やはり近くに拠点をつくらなければいけないのは当たり前でしょう。

 要は警戒、監視だけでも大事です。だけど、いざというのは、現場に行ったら戦えるというのが一番の抑止力です。そこまで考えて準備しないといけないのです。
 尖閣諸島もそうなのです。尖閣諸島5島あります。端から端まで110キロあります。ここから静岡ぐらいです。だから、そこに、向こうが分かれてバンバン入ってきたら、対応する海上保安庁は大変です。尖閣諸島を守るには110キロというのはすごく遠いのです。
 そういうふうに、これからのいろいろなことを考えるとき、我々はそういう現実に即して議論しないといけません。当然、向こうの避難港をつくるのも大事。でも、避難港だけつくって、それを排他する力がなかったら、中国は居座ります。時化(しけ)があったら、避難は断われないのです。

 五島列島の福江港などは時化があったら、いつも中国漁船が東側に来ます。でも、それは受け入れざるを得ない。怖くて、夜通し監視しています。波が引けたら、今度は魚を取って帰ります。とんでもない。だから、避難港をつくるのであれば、それを排する力と一緒でないと無理です。


 尖閣については、本当に習近平さんが腹をくくって「漁船行け!」と言ったら、漁民は1,000万人以上いるのですから1,000隻の漁船なんか簡単です。本当に、三国志の赤壁の戦いのような状況が起きてもおかしくない。いろいろなことを想定しなければいけない。

 陸海空自衛隊の連携も強化しないといけませんし、警察と海上保安庁の連携もしないといけない。海上保安庁と自衛隊、自衛隊と警察の連携も必要です。特に警察官というのは自活能力がないのです。この前の震災のときも、自衛隊はテント生活をしていました。警察の方は旅館か体育館です。魚釣島に1週間キャンプできません。
だから、前回、魚釣島に警察が行ったときは、近くの海上自衛隊の船にいて、そこから上陸しました。そういうホテル代わりの船がなければ絶対に無理です。陸上の警察に対して、海から海上保安庁、自衛隊がどうやって支援するかということも考えなければいけない。いろいろなことを考えないと、守れない。

 それには、最終的には、やはりリーダーの覚悟です。何としても守るという覚悟です。私は当面作戦、将来作戦と分けて考えます。当面作戦、将来作戦。今いきなりボンと自衛隊を置いたら、これはあまりいいことはないでしょう。だって、仮に自衛隊を置いたとしても撃つ弾がなかったら単なる鉄の塊でしょう。それでも、置いたら置いたで、向こうにはいい口実になるかもしれない。いろいろあります。
 では、もしも自衛隊を置いたら、経済的な嫌がらせがいっぱい来ます。そういう備えもやっていろいろ準備しないといけない。私は、将来的には、何らかの管理強化は大賛成です。だけど、そこはうまくやらないといけない。将来的は、私は絶対に管理強化、人を置くべきだと考えます。

 なぜか? 中国とソ連の紛争がありました。アムール川の支流のところにダマンスキー島、珍宝島という島があります。その島をめぐって中国とソ連、100万以上の軍隊が向き合いました。それは1969年、中国が武装した偽装難民を島に送り込んで、その農民を保護するという目的で軍隊を派遣して、にらみ合いました。
でも、中国が島を取りきったのは22年後の1991年です。ずっと待機したまま、農民をどんどん島に送り込んで、91年、ソ連が崩壊した年に、鄧小平が全部取りきりました。ずっと棚上げというのは向こうの思うつぼかもしれません。日本が弱くなったときに出てきますから。これが向こうです。
 だから、そういう面で、我々が本当に覚悟を持って、この領土、尖閣、あるいは原発を守っていかないと。今、そこの脆弱性が割れてしまった分については、本当にしっかり守っていかないといけないということです。


9.日本人の「覚悟」

 何で、私がここまで覚悟、覚悟、覚悟と言うかというと、日本人はすばらしい民族で、いざというときに覚悟が出るのです。
震災のときに、東北でびっくりしました。隊員と一緒に、いろいろな現場へ行きました。「目の前に、覚悟を持って、自分よりもほかの人を考えている日本人がいた。だから、我々は頑張れた。背中を押された」。
自衛隊の方が頑張れた根源です。

 隊員と一緒にある病院に行きました。院長先生の目は真っ赤です。1週間寝ていないのです。
院長に「何でそんなに頑張るのですか」と聞いたのです。

「佐藤さん、実は波が来たときに入院患者全員を屋上に上げようと思った。
でも、全員は無理だった。
その中に80過ぎのおばあちゃんがいました。
波がおばあちゃんをベットごとさらっていきました。
ベットの上でおばあちゃんが屋上の私を見て
『ありがとうございました』と言って波の中に消えていったんです。

佐藤さん、分かりますか。
『ありがとうございます』と言って波の中に消えていったんです。
私はあのおばあちゃんの姿、あの言葉、一生忘れることはできません。
だから、私は今、必死なんです。
自分の命があと1週間持てば誰かにバトンを渡すことができる。
でも、今、私しかいないのです。
誰がこの原発に近い病院に来ますか。
今、私しかいない。
自分が今、頑張らなければ、みんな亡くなってしまう。
自分なんかどうなったっていい」。


ものすごい覚悟が伝わってきました。
すごいな。俺たちはもっと頑張らなければいけないと思いました。


 4月の中旬に、宮城県のある浜に行きました。3歳くらいの男の子が見つからないと一所懸命探しているお母さまがいました。私が行ったときは見つかりませんでした。4月下旬に「見つかった」と連絡が来ました。もう4月下旬です。かなり傷んでいる。違うかもしれない。
 とても、そういう状態をお母さんに見せるわけにいかないので、毛布にくるんで、服だけ出して、お母さまに見せた。
そうしたら、お母さまは、その服を見て「間違いありません。自分の息子です」。泣きながら、子どもを抱いて、こう言ったそうです。

「よかったね。本当によかったね。
自衛隊さんが助けてくれたよ。本当によかったね。
今度生まれ変わったら、大きくなったら、自衛隊さんに入れてもらおうね。
そして、1人でも多くの命を救おうね」。


居合わせた隊員は、みんな号泣だったそうです。

 こういう状況になっても、自分よりもほかの人を考えている。まだまだ子どもが見つからなくて探しているお父さん、お母さんがいっぱいいます。
子どもに「生まれ変わって、自衛隊に入って助けてやれ」「すごいな。こういう日本人がいる。覚悟だな。自己犠牲だな。俺たち、もっと頑張らないといけないと思った」と言っていました。

 3月下旬に岩手の浜に行きました。がれき一面の中で子どもを探す親の姿、きょうだいを探す子どもの姿がありました。
10歳くらいの女の子が一所懸命がれきをめくりながら、思い出の品を探していました。手伝いました。会話の中で、何気なく言ってしまったのです。
「何か困っていることない。何か欲しいものない」。
そうしたら、その女の子は

「佐藤さん、お母さんが欲しい。お母さんが欲しい」

と急に泣き出してしまいました。しばらく女の子を抱いて、一緒に泣きました。
現場はこうだったのです。



がんばろう、東北。頑張って、福島、これは被災者はないという言葉でした。本当に自分の家が流されたり、身内が亡くなったら、頑張ろうというのは絶対に起きない。何で俺が、何で俺なんだ。備えが十分ではなかった。後悔しきれない。あれほど地震が来る、津波が来ると言われていたにもかかわらず、甘えがあった。
「備えあれば憂いなし」が、「憂いなければ備えなし」になっていた。去年大丈夫だから、今年、来年大丈夫だろうと思った。甘えがあった。これでは守れないのです。


 軍隊には合言葉があります。
プリペア・フォー・ザ・ワースト、ホープ・フォー・ザ・ベスト
("Prepare for the worst, Hope for the best")。
最悪に備えつつ、最善を追求しなさい。これが危機管理。ただ、そう言った福島の方々も、自衛隊の行動で勇気と希望をもらったと言っていました。
あの原発1号機、4号機がバンバン爆発した。いつ爆発するか分からないその原発の上を自衛隊のヘリコプターが飛んで放水をしてくれた。米軍はあんなことをやらない。米軍は約70キロ離れていました。

あの映像を見て、福島の方は思った。
「儲かるか、儲からないかではない。損か得ではない。自分の命を犠牲にしてでも守るべきものはあるんだ。俺たちも頑張らないといけない」。
やはりこのような自己犠牲が人の背中を押すのです。
これは我々の価値観なのです。苦しくなったときに、その軸が分かってしまう。何がその人の軸か。自分よりもほかの人。だから、そういうもの、自分の国は自分で守る。国家あっての地域だし、地域あっての家族。家族あっての地域。地域あっての国家。当たり前のこと。
 先人がまさに我々にこの日本を託されました。あの多くの犠牲の後、天皇陛下は、終戦のお言葉の中で、まさにこの再建のために大御心を固くし、忠義を厚くして、みんなで頑張ろうと仰った。
3.11のあの2年前の震災の後、天皇陛下がまさに国民が、被災地にみんな心を寄せて、心を一つにこの復興を頑張ろう。我々はその犠牲を無駄にしては絶対いけない。その思いをしっかりと後世につなげないといけない。未来の責任が我々にはあるのです。


10.植村眞久大尉の手紙

 今、私とたまたま同じ名前、「まさひさ」さんという、植村眞久・海軍大尉の娘さんに宛てた手紙を持ってきました。彼は大村基地から飛び立って、フィリピン沖で特攻死を遂げた、散華された海軍大尉です。読み上げます。
 娘さんの名前は素直の素と書いて「もとこ」といいます。


 素子

 素子は私の顔をよく見て笑ひましたよ。私の腕の中で眠りもしたし、また、お風呂に入つたこともありました。素子が大きくなつて私のことが知りたいときは、お前のお母さん、佳代伯母様に、私のことをよくお聴きなさい。私の写真帳もおまえのために家に残してあります。素子という名前は、私がつけたのです。素直な心のやさしい、思いやりの深い人になるようにと思つて、お父さまが考えたのです。

 私は、おまえが大きくなつて、立派な花嫁さんになつて、幸せになつたのを見届けたいのですが、もしおまえが私を見知らぬまま死んでしまつても決して悲しんではなりません。おまえが大きくなつて、父に会いたいときは九段へいらつしやい。そして、心に深く念ずれば、必ずお父さまのお顔がおまえの心の中に浮かびますよ。父は、おまえを幸せ者と思います。生まれながらにして父に生き写しだし、他の人々も「素子ちやんを見ると、眞久さんに会っているような気がする」と、よく申されていた。

 また、お前の伯父様、伯母様は、お前をただ一つの希望にして、お前をかわいがつてくださるし、お母さんも、ただ、ご自分の全生涯を賭けて、ただただ素子の幸せのみ念じて生き抜いてくださるのです。必ず、私に万一のことがあつても、親なしなどと思つてはなりません。
父は常に素子の身辺を守つています。やさしくて、人にかわいがられる人になつてください。おまえが大きくなつて、私のことを考え始めたときに、この便りを読んでもらいなさい。

 植村素子へ

 追伸 素子が生まれたとき、おもちやにしていた人形は、お父さんがいただいて、自分の飛行機にお守りにしております。だから、素子はお父さんと一緒にいたわけです。素子が知らずにいると、困りますから、教えてあげます。


 植村眞久・海軍大尉です。
 こういう先人たちの思い、我々は、まさに今、国難と言われているときに、東北の復興も、景気、経済も、領土問題も、危機管理もまさに心ひとつに、覚悟を持ってやらないといけない。
一人ひとりが自分たちのできることをやれば、この国難を必ず乗り越えられると私は思います。


11.最後に ~佐藤正久の想い 一燈照隅・萬燈照國~

 最後に、今日、私が皆さんに伝えたい言葉はこれです。
これは安岡(正篤)先生の言葉です。


一燈照隅 萬燈照國

一人ひとりの照らす提灯はひとつの隅しか照らすことができないが、国民みんなが提灯を照らせば、国を照らすことができる。
まさに今、我々が、一人ひとりが自分の小さな義務と責任を果たすことによって、国が栄えます。国難を乗り越えることができます。



天皇陛下が仰るように、国民が心一つになって、将来への責任、未来の責任を果たす。
これが今だと私は思います。

あの南三陸町の女性職員、遠藤さんのあの想い。
また、この植村眞久大尉の想い。
多くの犠牲を払って、今、我々が生きているわけです。
だから私は今年の靖國神社、春の例大祭で「防衛大臣政務官 佐藤正久」と記帳してまいりました。それが我々の義務だと思っています。

 今後とも皆さまとともに力を合わせて、この国、そしてこの埼玉を。また住むなら、この埼玉がいい、そして生まれ変わるなら、この日本がいい。こういう日本に皆さんとともにしてまいりましょう。今日はどうもありがとうございます。



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