2014年3月24日月曜日

グーテンベルグと青い空

尾崎財団では、実に半世紀以上の歴史を誇る『世界と議会』と題した冊子を主に会員向けに発行している。

この連休は、財団が掲げる「世界」と「議会」のうち、世界について色々と想像を巡らしていた。
私が世界を語ったところでウクライナとクリミア半島の問題やら行方不明の状態が続いているマレーシア航空機の問題やら、横田めぐみさんをはじめとした北朝鮮拉致被害の問題などが一気に解決する訳ではない。
その一方で、切れかかったつながりを修繕し、手繰り寄せていけば再び強固な絆となるかも知れない。
そんな事を考えながら、尾崎ゆかりの2か国に想いを馳せた。


一つ目は、先週から始まったアメリカ・ワシントンの桜祭り。
これは尾崎財団としても積極的に応援したいイベントだ。

http://www.nationalcherryblossomfestival.org/

ワシントンの桜の始まりは、今から100年ほど前にさかのぼる。
当時の東京市長(現在の都知事に当たる)だった尾崎行雄は、第27代大統領のウィリアム・ハワード・タフト夫人が桜を所望しているとの噂を聞いて桜の苗木を贈った事に由来する。
最初の苗木は防疫が不完全だったのか駄目になってしまったが、2度目はきちんと対策を講じて、

また苗木の数も最初の2千本から3千本に増やして無事に太平洋を渡った。
その辺の経緯はWebで探せばいくらでも出てくるのでここでは割愛するが、ともあれ尾崎の桜が1世紀を経てアメリカの人々に喜ばれているのは、日本人としても財団の末席としても嬉しい限りだ。



私自身、財団との縁はかれこれ5年ほどになる。
それでも私自身の関心がこれまで薄かったのか、それとも財団でも重きを置いていなかったのか、この一大行事の事は誰も教えてくれなかった。

気付いたからには、ささやかなお祝いのメッセージを送りたくなる。
催しの成功と互いの国の良好な関係を願い、お祝いのメッセージを主催者に送った。


その後に思い浮かんだのは、尾崎のもう一つの外遊先として知られるイギリスだった。
再婚相手のテオドラ夫人がイギリスのハーフだったこともあり、尾崎とイギリスの縁も決して浅くはないだろうと踏んで調べようとしたのだが、期待とは裏腹に、ネットでほんの少し検索した位では目ぼしい情報に辿り着けない。
代わりに、テオドラ夫人の足跡に関してはとても興味深いものが見つかった。


尾崎テオドラ英子夫人は尾崎の妻であるだけでなく、「日本昔話」の英訳を手掛けた人物として取り上げられていた。

日本には著作権の消滅した古典などを中心に「青空文庫」というパブリックドメインのインターネット文庫が開設されている。
海外でも同様に「プロジェクト・グーテンベルグ」というオンライン図書館が存在する。
テオドラ夫人の貴重な仕事はグーテンベルグで見つけた。


http://www.gutenberg.org/files/4018/4018-h/4018-h.htm

インデックスによると、収録作品は以下のとおり。
訳さずとも「なんとなく分かる」題名もあれば、即座に浮かんで来ないものもある。


1.MY LORD BAG OF RICE

2.THE TONGUE-CUT SPARROW

3.THE STORY OF URASHIMA TARO, THE FISHER LAD

4.THE FARMER AND THE BADGER

5.THE "shinansha," OR THE SOUTH POINTING CARRIAGE

6.THE ADVENTURES OF KINTARO, THE GOLDEN BOY

7.THE STORY OF PRINCESS HASE

8.THE STORY OF THE MAN WHO DID NOT WISH TO DIE

9.THE BAMBOO-CUTTER AND THE MOON-CHILD

10.THE MIRROR OF MATSUYAMA

11.THE GOBLIN OF ADACHIGAHARA

12.THE SAGACIOUS MONKEY AND THE BOAR

13.THE HAPPY HUNTER AND THE SKILLFUL FISHER

14.THE STORY OF THE OLD MAN WHO MADE WITHERED TREES TO FLOWER

15.THE JELLY FISH AND THE MONKEY

16.THE QUARREL OF THE MONKEY AND THE CRAB

17.THE WHITE HARE AND THE CROCODILES

18.THE STORY OF PRINCE YAMATO TAKE

19.MOMOTARO, OR THE STORY OF THE SON OF A PEACH

20.THE OGRE OF RASHOMON

21.HOW AN OLD MAN LOST HIS WEN

22.THE STONES OF FIVE COLORS AND THE EMPRESS JOKWA


2014年3月19日水曜日

葉書の効能


ポストカードというよりも、葉書という名前は何となく
耳に馴染むというか、しっくり来る。

元々は他愛のない雑談の産物だった。
仲間の集う尾崎財団で
「何か、来館記念になるようなものがあるといいよね」
そんな一言から、ならば作ってみようという事になった。
その一方で「作ってくれる人」はおらず、また企画制作を外注する
予算があるわけでもないので、満場一致で私がつくる事になった
こういう時の私は、いつもか弱い少数派だ。



製作自体の過程については前回のエントリのとおりなのだけれども
本舞台の葉書をこしらえてから、ここ2年ほど無精になっていた
直筆の便りをしたためたいと思うようになった。
意外な効能に作った私自身が驚いている。


さて今回の葉書、片面には尾崎行雄の揮毫を全面に置いている。
レイアウトの関係で宛名面は上下に分割しているのだけれども、
一筆啓上するには充分なスペースである。

眺めているうちに、葉書、そして言葉、それぞれの意味について改めて考えた。
ソーシャル何とかが隆盛をきわめ、コピペ放題の現代においては
手紙はすっかり珍しくなってしまった。
それでも、こんな時代だからこそ想いを託し、時間をかけて筆を握り、
書き損じてはやり直しのアナログなやりとりは大事にしたいと思う。
私自身、ここしばらく忘れていた感覚だ。


手前味噌かも知れないが、この葉書きは受け取った人にも
何かを感じて頂けるのではないかと期待している。
私がどんな一筆を添えるか、それよりも
どうして尾崎の揮毫をあしらった葉書きを送りたいと思うのか。
そちらの方が大きい。

「人生の本舞台は常に将来に在り」。

尾崎の著書『人生の本舞台』によると、病に伏していていた折に
ふと浮かんだ言葉だそうである。
古今東西同種の言葉を調べてはみたものの、類する文言を
見つける事が出来なかったこともあり、以来尾崎は自らの座右の銘として
用いるようになったらしい。


この一言は確かに「憲政の神」あるいは「議会政治の父」と呼ばれる
尾崎が発掘した言葉ではあるけれども、決して尾崎だけのものではない。
今を生きる人、これまでに蹉跌を抱えた人、
何となく物事がうまくいってないと感じる人。
そんなとき、この一言があれば
ちょっとは気持ちが前を向くきっかけになれるのではないか。
そんな事を願いながらこしらえた。


なにも、尾崎を上げ奉ろうとしている訳ではない。
こんな時代だからこそ、語り継ぐ価値がある言葉がある。
温め直したい価値観がある。
そう思えばこそだ。


今年はちょうど、憲政の神が没してから60年の節目。
アベノミクスではないが、さしづめ「第一の矢」とでもいったところだろうか。
不思議と、矢はいくら放っても尽きる感覚がない。
射るたびに新たな無限の矢が湧いてくる、そんなことを連想している。


これまで尾崎財団の「人生の本舞台~」と言えば
入口正面の石碑であったり、もしくは色紙であった。
いずれも持ち帰ったり携行するには不便だが、葉書ならば
懐に忍ばせる事もできる。
誰かに届けるにも、コピペなんか必要ない。
切手一枚あればいい。

お蔭様で仲間内では好評を頂いているが、
それよりも製作を担った私が一番うれしい。



さて、誰にどんなメッセージを届けよう。
季節の変わり目、考えただけでも胸が躍る。



2014年3月15日土曜日

ポスター



つい先日、咢堂塾16期の募集ポスターをこしらえた。
もっとも広く出回るものではなく、憲政記念館内のブースに
掲示する程度のものなのだけれども。
添付のようなものを一晩かけてこしらえた。



美麗に作ろうと拘ったり、技巧を駆使したら正直きりがない。
それ以前に私自身はデザインを基礎から学んだわけでもないので
素人丸出しなのは承知の上だったりする。

それでも内製化したお蔭で、せいぜい紙代とインク代、
その程度の実費で賄えた。

この一年で、こんな感じのDIYが随分と増えてきた。
つい最近は財団ブランドのポストカード製作を、
初めてのイラストレーター(イラレ、とか言うらしい)を
半べそをかきながら何とか一本仕上げることができた。



昨年暮れには、財団のオリジナルチロルなんかも出来た。
尾崎の顔、本舞台、それと財団ロゴの3タイプ。


別に何でもできる訳じゃない。
誰もやる人がいないから、しょうがない俺やるわという感じで
「とりあえず、やってみる」ことを繰り返しているに過ぎない。


振り返ると、尾崎財団のサイトもそんなノリで作り始めたのだった。
誰もやる人がいないのと、外注するだけの費用が勿体ないのと、
外注して納得のいかない出来ならストレスが溜まるのでなんとなく
やっている。

ポスターも、そんなノリの一つだったりする。
ただ、今回はある意味で様々な想いを込めた。
暫し、製作の舞台裏にお付き合い頂ければ幸いだ。


今から一年前、憲政記念館で
「政治におけるインターネットの活用」について講義をさせて頂いた。
その時に私が話したのは「インターネットで私たちが目にする
様々なコンテンツは大別すると三つしかない」ということだった。

文字情報、画像情報、それと動画情報(音声は便宜上、動画に含む)。
それだけなのだけれども、それが大きな違いを生む。


インターネットで言っている事は、既存の媒体にも当てはまるだろうか。
そんな試みも兼ねての製作だった。


テジタルサイネージと違って紙のポスターは、せいぜいコピーと
写真やイラストの組み合わせに過ぎない。
それでも、「届け!届いてくれ!」何人かの顔を思い浮かべ
ひたすら念じながらこしらえた。

誰に、何を届けたいのか。それはここでは触れないことにする。
ただ、そう願った人には、この数日間個別にメッセージを送っている。

あなたや、あなた。
また、あなたの事を思いながらこしらえた。


想いは届くだろうか。

2014年3月11日火曜日

政治の限界

ここ数日のNHKを点けると、朝のニュースでは連日のごとく
3.11を振り返る取材レポートや、現地のインタビューが
飛び込んでくる。


見るにつけ思うのは、「政治の限界」ということだ。

例えば福島を振り返ると、当時の菅直人総理。
あれはどう見ても政治トップの迷走が招いた人災だと私は思うし
当時の民主党政権でも松本龍・復興担当相が大いに復興に水を差した事は
今なお記憶に新しい。
宮城県の村井知事とは僅かばかりの知遇を頂いている身としては
昨日の事のように思い出される。



もっとも、3.11その時を迎えた時の政権が現在の自公連立だったら、
幾分はマシな部分があったのかも知れないけれども、かれこれ政権に
返り咲いてから2度目の3.11だ。

現場の知己や、漏れ聞こえて来る声に耳を澄ましても
「自民公明に戻ってよかった」という声はさほど聞こえて来ない。

少なくとも3.11の復興支援に関しては、超党派で一気に
進めてくれまいかと歯噛みしている自分がいる。
政党って、一体なんだろうと思う。



再び、NHKを振り返る。

ここ数日の現地ルポで印象的だったのは3つあった。

一つは、「どちらかというと」という意見も含めると
復興が進んでいると感じられない意見が8割を占めたという
アンケート。

もう一つは、被災3県に追悼施設を建立するという政府発表。

そして三つめは、今朝のテレビで出掛けに目にした
「震災遺構・保存か廃棄か」という見出し。


後世や次世代に災害の教訓を残し、忘れずに伝えていく事は
大事な事だと私も思う。
その一方で、忘れなければ生きていけない現場の人の思いも解る。


そんな折の、政府主導による追悼施設の建設構想。
決して悪いことではない。
けれども、いくら土建をやっても人を耕さない限りは進まねえよ。
そんな想いもあって、なんだか違うよなという違和感が拭えない。


前回のエントリでも記した尾崎財団の新たな試みは、私たちが思う
復興支援を掲げたつもりだ。


持ち続けるのも捨てるのも、共に「決断」を必要とする。
少なくとも、進むためには人は決断し続けて行かなければならない。
16期の咢堂塾は、政治であれ民間の立場であれ、学びの成果を
次のように考えている。

1.目の前の課題に対して「気づく」ための感覚を養う。
  センサーが研ぎ澄まされれば、日頃意識しない潜在的な課題も
  見えてくる。

2.見えた課題に対し、自身の立ち位置を「決める」。
  そこには勿論、取捨選択や賛成反対、各々の立場があってもいい。
  ただ、少なくとも「自分はこうだ」という具合に決める。

3.決めたら「動く」、そして「動きつづける」。
  瞬間的な決め事に対して反応するのは、そう難しい事ではない。
  ただ、決めた事に対してアクションを起こし、それを続ける事は
  そう容易いことではない。


開講前にあたって志望される皆さんの想いを吸い上げ、その実現に
一歩でも近づけるようにガイドする事にも注力しようと考えている。
そして10か月に渡る学びの後に、どこまで到達できたのか、あるいは
近づく事が出来たのか。
その辺もあらかじめ意識して進めるつもりでいる。


今回のエントリの題名に掲げた「政治の限界」だが、
これは決して各政党に対する批判ではない。
政治が何かするにも限りがあるし、何より政治は魔法の杖ではない。
それを感じたならば、気付いたならば、政治や既存の制度のせいにせず
「だったら、自分はどうする」
目覚め、そして行動する人を一人でも二人でも多く生み出して行けばいい。
かくいう私自身も、勿論そうありたい。


誰かや、何かのせいにしない。
まずは、自分が出来ることをやる。

私の場合はたまたま縁あって尾崎財団という活動の場を
与えて頂いているので、尾崎財団と咢堂塾を通じて
「政治の限界」の際(きわ)を見定め、それを破りたいと思っている。

実際、今の私たち(塾の仲間)には「政治に失望する」暇がない。
そんな暇があったらやりたいこと、やらねばならないこと、
そして実際にやっている事が盛りだくさんだ。

限界の薄皮一枚、その先には「可能性」があると思う。
破れる事が出来ればその時点で同じ限界ではなくなるし、
その繰り返しで政治と向かい合うシチズンシップが
根付けばと願っている。


被災地の復興には、結局のところそれが一番なんじゃないだろうか。
週末に、被災県の各紙と全国を網羅する報道各位へのリリースを行なった。
震災から3年を迎えて、咢堂塾が目指すもの。
そういった想いを込めた。

実を結ぶかはわからない。それでも、やる。
これも、咢堂塾で尾崎咢堂と相馬先生の遺訓から学んだ事のひとつだ。

http://www.ozakiyukio.jp/information/2014.html



2014年3月6日木曜日

3.11を前に

私自身は生前お目にかかる事がなかったのだが、
咢堂塾の初代塾長・相馬雪香先生が亡くなったのが2008年。
それから3年後に起きたのが忘れもしない3.11、
東日本大震災だったりする。

そして発災から間もなく3年を迎える訳だが、
「学んであなたは、何をするの」
長らく続いていた答え探しのひとつに、
震災とどう向き合うかというテーマがあった。

出掛けに点けたテレビのニュースで、震災復興に関する
現地アンケートの結果が放映されていた。
「とぢらかというと」も含め、当初の期待に対して進んでいない、
もしくは遅れを感じている人は全体の8割を超えるという。

何が足りないのか。
人が足りない」のだと思う。

よく言われる生産の3要素に「人」「物」「金」がある。
ここでいう「人」は単なる労働力ではない。
何かを決める人、あるいは何かを推し進める人。
引っ張っていく人。


仲間内で話す最近のテーマに「咢堂塾で学んだ人」の像がある。
相馬雪香先生は、塾の立ち上げにあたりどんな人を育成したかったのか。
咢堂塾を通じて、何を世に問いかけようとしていたのか。

相馬先生が亡くなって、今年で6年になる。
そして大震災発災から3年。
震災を起点に、ちょうど折り返し地点から一巡した形になる。


現在事務局長を務める石田尊昭さんは、相馬先生と共に
咢堂塾を立ち上げた人物でもある。
石田さんを中心に、咢堂塾として如何に3.11と向き合うか。
そして尾崎財団として、何ができるのか。
活発な議論がこの一か月ほど続いていた。


議論の中で浮かび上がったのが
「咢堂塾の全国展開」そして「カリキュラムの強化」だった。
尾崎財団が所在する憲政記念館は永田町1丁目1番地1号に位置し、
いわば日本の政治の中心地でもある。
ここでの学びはあくまでも月に1,2回の通学が前提になっているが
遠方の方にとっては通学そのものがネックになる。
これを何とかしたいと思った。

インターネット、とりわけブロードバンドやWi-Fiが普及した現在では
動画を用いた講義配信も不可能ではなくなった。
単なる視聴なら動画を公開するだけでも終わる話なのだが、

なぜ、尾崎行雄なのか
なぜ、相馬雪香なのか
そして「なぜ、永田町1丁目1番地、憲政記念館」なのか。

咢堂塾のインターネット版を立ち上げるに当たり、
そこを徹底的に掘り下げる事にした。


技術的な検討に関しては、セキュリティレベルと利便性の折衷を
どの辺で図るかの検討を今も重ねている。
便利に寄りすぎるとセキュリティが甘くなる。
かといって強固すぎても今度は使い勝手が悪くなる。
その辺の設計は今の財団では私しか担い手がいないので
半べそをかきながらモデルケースの研究やテストサイトでの検証を
進めている。
ようやく「これなら、どうかな」というポイントが見えてきた。


受講方式も単なる動画聴講で終わらせず、可能な限り通学の
リアルな講義に相当する課題と達成感を共有したいとの思いから、
一度は憲政記念館に足を運んでいただく事、それと聴講後の
課題提出などのアレンジを盛り込むなど骨格が徐々に出来上がってきた。

併せて、ガイダンスや運営の体制づくり、受講者専用のサイト制作などを
オフタイムに少しずつ進めている。
来週には正式なリリースが出せる予定だ。


敢えてここ(=拙ブログ)でその話題を取り上げようと思ったのには
理由がある。
単に咢堂塾のインターネット版をスタートするだけではなく、前述の
「3.11との向き合い方」が大きく関係している。


詳細は後日の正式リリースに譲るとして、今回の試みは咢堂塾の、
そして尾崎財団の存在意義を広く問いかける節目になるだろう。


そして、もう一つの「カリキュラムの強化」に関しては、
インターネット版の立上げに合わせてリアル受講のメリットは
何なのかということの原点を見つめなおす所から始まった。
私だけの発案ではない、運営委員の議論からブラッシュアップして
徐々に形が見えてきた。


16期の通常カリキュラムは毎回3時間×16回、つごう48時間を
どれだけ活性化させるかに主眼を置いている。
講義の受講がインプットならば、それに見合ったアウトプットの場を
設ける予定でいる。
授業を聞いて、なんとなくディスカッションして、はいおしまい。
そんな形にはならない。
恐らく、過去の全15期とは違った、新しい咢堂塾になるだろう。



すでに応募の受付けは始まっているが、過去3回の入塾経験から
「学んだ果てに」何があるのかについても触れておきたい。

まずは、政治を志したい人。
16期修了の暁には、来年に控えた統一地方選の即戦力になるだけの
資質が必ず得られる。
今回の講師陣は、敢えてそちら寄りの顔ぶれとなっているし、何よりも
過去の卒塾生には党派を超えて地方自治体の議会で活躍している人が
数多くいる。
無所属で頑張る卒塾生も多い。




NPOや市民団体のフィールドで社会に貢献したい人にも
咢堂塾はうってつけの揺籃(ようらん)になってくれる。
初代塾長の相馬雪香先生は、カナダの友人から届いた「日本人は冷たい」と
書かれた手紙に一念発起して、日本を代表するNGO「難民を助ける会」を
立ち上げた人物だ。
本気の心があれば、世界を良い方向に導く事ができる。

もっとも、中には「しかるべき職位や立場にいなければ、そんな事は出来ない」
そう思う人もいるかも知れない。
16期の咢堂塾は、そんなあなたの「行動しない理由」をひとつひとつ剥がしていく。


何がしたいのか、自分を探している人だっていい。
かくいう私も、初めて憲政記念館を訪れた時は確固たる信念も目的意識も無かった。
それが、通っているうちに何となく今みたいになってきた。
私自身は政治を志向する訳ではないが、咢堂精神の復権が政治家の在り方や
外交の在り方、地方自治の在り方などおおよそ政治にまつわる全ての事象を
紐解く鍵になると自信を持って言える。


それだけのものを提供する用意が、咢堂塾16期には出来ている。
あとは、「あなた」がドアを叩くだけだ。

http://www.ozakiyukio.jp/


3.11を目前に控えての雑感である。

2014年3月1日土曜日

「サヨナラ」ダケガ人生ダ

唐代の詩人・于武陵(うぶりょう)の作で
「勧酒」と題された五言絶句がある。

この五絶に触れると、領土や政治の問題で一筋縄ではいかないながらも
中国という国の凄さと、それを解釈する日本人の感性について色々と考えさせられる。

日本では「山椒魚」井伏鱒二の訳が有名だ。
原文と書き下し文、井伏訳を順に並べてみる。
以下のサイトから転用させていただいた。

http://homepage1.nifty.com/yasuki-a/toku-kanshu.html

はじめに、原文と書き下し文。

勧君金屈巵  君に勧む金屈卮(きんくつし)
満酌不須辞  満酌辞するを須(もち)いず
花発多風雨  花発(ひら)けば 風雨多し
人生足別離  人生別離足る



これだけだとピンと来ないが、それでも
和訳された途端に文字が躍動しはじめる。


君に この金色の大きな杯を勧める
なみなみと注いだこの酒 遠慮はしないでくれ 
花が咲くと 雨が降ったり風が吹いたりするものだ
人生に 別離はつきものだよ




これに対する、井伏鱒二の訳。
完全にノックアウトされた。


コノサカヅキヲ受ケテクレ
ドウゾナミナミツガシテオクレ
ハナニアラシノタトヘモアルゾ
「サヨナラ」ダケガ人生ダ





実は、このフレーズを識ったのはここ一年ほどの話だったりする。
生涯の戦友が教えてくれた。
いや、もしかしたらどこかのタイミングですれ違っていたかも知れない。

けれども、なぜか今になって「あ、これだ」と訴えてきた。



今年は色々な「サヨナラ」が訪れる。
そして今もいくつかの「サヨナラ」に備えている。